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「可能性のポリティクス」の社会活動論

 

 Abstract

 人は自己保存の欲求に従って行動する主体であり、ある財や行為が自らの生存可能性に与える影響を限定合理的に評価して絶えず行動を最適化している。生存可能性は効用そのものであり、それゆえ、個人が生存可能性の一部分を犠牲にして「支払い」を行った場合、それと等価以上の「受け取り」を期待する。
食糧や消費財の入手が短期的な生存可能性を保証するのに対して、承認欲求や尊敬欲求などの社会的欲求の充足は長期的な生存可能性を感じさせる。そのため、感謝されている、必要とされているといった感覚は個人に効用を与える。それゆえ、労働や各種の活動に「社会的意義」を想定することで賃金とそれを消費・貯蓄することによる効用以外に「物語所得」が与えられている場合が少なくない。これは賃金が発生せず、また必要ともしないボランティア、NPO等の活動においては従事者にとってほぼ唯一の報酬となっている。
ところが、「社会的意義」とはある行為が他者の効用にもたらす影響を、恣意的な時間・範囲・不確実性を前提に切り取ったものでしかない。実際には未来における他者の効用についてアプリオリ的に正確な期待を得ることは不可能であるため、「社会的意義」は常に「偽りの物語」であり、欺瞞である。これを「可能性のポリティクス」と称する。
一方で、あらゆる可能性のポリティクスを否定した地平には、最低限の生活のための労働以外の全ての活動の対価が不可知、すなわちゼロであると想定され、それゆえにそれらの活動がいっさい為されないアパシー状態が現出することを認めざるを得ないだろう。知的に誠実であることは、かえって我々から生の意義を奪い去るのかもしれない。

 

人は、自らの意思によるあらゆる支払いに対して、それに応じた受け取りを要求する。支払いとは、所有する物資や時間、労力、思惟など、本来であれば生存可能性をより高めるために用いることができたあらゆる資源のことである。一方で受け取りは賃金や物資、言語、感情的なジェスチャーなどあらゆる形態をとりうるが、ある行為における支払いと受け取りの総量は、それらによって感じられる生存可能性という意味において、いつも等価になっているし、人はそれを追求している。

これが等価にならない場合、人は第一には受け取りの量を増やし、あるいは支払いを減らそうとする。賃金が予定よりも低いので仕事を手抜きする場合とか、おつかいに予定よりも手間が掛かったので追加のお駄賃を要求する場合などがこれにあたる。第二には、既に確定した取引について、解釈を変更することを試みる。いわゆる認知のバイアスがこれにあたる。詐欺的な商品を購入し、返金ができないと考えられるとき、人はしばしば「勉強料」という考え方を導入し、詐欺的な商品の他に「勉強」と名付けられた経験を支払った代金によって購入したのだと自らに言い聞かせる。飲酒やギャンブルに金を使いすぎ、その月の家賃にも困る程度にまで至ったとき、若者は「この程度のはした金なら、少し働けばすぐに取り返せるさ」と吐き捨てる。この行動は、すでに消費してしまった金銭が自らの生存可能性に与える影響を事後的に再評価し、切り下げているものと見ることができる。いずれの場合にも、取引が行われた時点で交換される資源の量は確定しており、とくに金銭や物資といった形のあるものについては動かしようがない。しかし、事後的に記憶を書き換えたり、取引された資源の評価を操作することによって、人はつねに過去の取引が等価以上の有利な交換であったことを担保しようとする。

感情的な対価による社会生活

そのため、多くの人々の労働や社会活動についても、上記のような方法で絶えず感情的な最適化が行われており、ある行為のために実際に費やされた時間や労力、物資や情動の量が多ければ多いほど、人はその対価に多くの資源を得たことを信じようとする。

受け取り=対価として得られる資源は、支払いの場合と同様、形を持たない観念的なものによって充てることができる。その比率があまりにも高いと「霞を食って」生きることになるが、貯蓄や年金、扶養によってベーシック・インカム的なものが得られる状況においては、受け取りの全部分が他者からの尊敬、感謝といった情緒的なものであることが抵抗なく受け入れられる。いわゆる「やりがい搾取」の状況がこれに近い。

生活に必要な最低の賃金が保証されれば、その残余の部分は貯蓄または奢侈品の消費に充てられ、それらは個人の生存可能性を高めることで効用をもたらす。つまり、賃金以外の方法で直接的に生存可能性を予感させることができれば、それは賃金の余剰部分を増やしたときと同じ効果をもたらす。だから、学生によるNPOインターンシップの大部分は、これらの「やりがい」を与えることによって無償で労働力を確保している。ただし、こうした組織に無償の労働を提供する人々のほうも、同じ時間で賃金が得られる仕事を行い、それで得た賃金で何かを購入したり貯蓄したりした場合の効用よりも「やりがい」から与えられる効用のほうが大きいと考えられるから無償で活動に従事しているにすぎないのであって、それを「搾取」と呼ぶことの妥当性については議論の余地があるだろう。

そのため、必要最低限以上の賃金が支払われるあらゆる職業や、賃金を得る必要がない人々が行う活動については、つねに賃金に対して補完的な役割を担い、感情的な効用を与える「フリンジ・ベネフィット(非賃金所得)」が用意されている。使用者にとっては非賃金所得で労賃を置き換えることはつねに有利な行動となるため、プロパガンダ的な形で「社会的意義」が与えられ、それを受け入れるように求められる場合が少なくない。例えばブラック企業として名をはせた飲食店のワタミでは、「働く目的は賃金ではなく、お客様からの「ありがとう」だ」というやりがいが強制されていた。それ以外の多くの職場でも、その企業が社会にもたらすポジティブな影響が強調されている場合が少なくない。本稿では、これを「物語所得」と称したい*1

このように、使用者やNPOの主唱者等の広範な利益から、労働や社会活動の「社会的意義」はますます強調され、賃金削減の一つの方法として力を持つようになっている。労働者や活動の従事者が受け取る総合的な対価のうちこれらの物語所得が占める割合は、主婦や学生が行うボランティア活動においては100%であり、所得を必要とする職業においては、本来であれば高い賃金を得られたであろう人々が低賃金で従事している場合であればあるほどその比率は高い。神学系の大学を卒業した人物が神父や牧師になる場合、本来であれば初年度で年300万円、生涯では2億円以上得られたであろう大卒者としての賃金を完全に手放し、多くて年200万円程度にすぎない献金収入を生涯にわたって受け入れる必要が生じる。その必然的な帰結として、教会はその社会的な意義や貢献を過剰に強調する。

社会生活と可能性のポリティクス

しかし、ある行為の「社会的意義」を正確に測定し、ましてやそれを事前に予測することは困難であることが多い。「人間万事塞翁が馬」ということわざが示しているように、短期的には災難であったことが長期的には利益をもたらしたり、誰かにとって利益であったことが、それ以外の誰かにとっての不利益である場合が多い。誰にも不利益を与えずに誰かの利益を増やすことを「パレート改善」と呼ぶが、長期的な視点で考えた場合や波及効果を考えた場合、実際の社会生活においてパレート改善を実現することは非常に困難であるし、ある行為が結果としてパレート改善であったか否かは、神の視点によってしか把握できないことに属する。

ところが、使用者は「物語所得」を用意せずにはおかない。パレート改善が合理的に実行できないという事実を謙虚に受け入れ、「われわれの活動が社会に与える影響は予測できませんし、事後的に評価することもできません」と表明してしまっては、誰一人として無償では働こうとしないからだ。それに、個々の従事者や労働者にとっても、所与の賃金を受け取った上で自主的に「物語所得」を生成することができれば、労働時間や強度を少しも増やさずに効用を幾分か増やすことができる。そこで、人は以下のベクトルを物語所得を最大化する地点に調整し、そこに留め置こうと試みることによって、「偽りの」物語所得を作り出そうとする。

  1. 時間的な予測(長期⇔短期)
  2. 範囲的な予測
  3. 不確実性の予測

パン屋で働く人々は、ただパンを販売して所得を得るのみならず、彼らがパンを販売していることが「人々を幸せにしている」という想像を消費することで、追加の非賃金所得を獲得したいと考えている。そのため、彼らは彼らのパンを食することによって笑顔になる家族の姿を想像する。しかし、ある時点ではパンを食べることによって笑顔であった消費者も、そのパンによって肥満に陥るかもしれないし、ある人はそのパンによって糖尿病発症の閾値を超え、長期の入院を余儀なくされるかもしれない(時間的な予測の調整)。しかも、彼がパンを販売することによって、やむを得ない事情で彼よりもパン職人としての腕前が劣っていた誰かが職を失い、家族とともに路頭に迷うかもしれない(範囲的な予測)。そのうえ、パンを誤って食べた赤児がそれを喉に詰まらせ、窒息死するかもしれない(不確実性の予測)。これらのパターンが発生する確率はいずれも事前に評価することができないため、等価であると考えるしかない。しかし、パン屋が受け入れ、現実に日々消費する物語は、あらゆるパターンの中でも最も彼に充実感を与え、その行動を肯定するものだけである。そのパターンにおいて前提とされている時間的、範囲的、そして例外の範囲は恣意的なものだ。

このように、ある行為による外部効果を恣意的な基準系において予測し、その行為の道徳的な正当性として導入することを「可能性のポリティクス」と呼びたい。自らの行為によって波及的に継起する出来事とそれが人々の幸福感に与える影響について、われわれは「わからない」という以外の言明をすることができないはずだ。しかし実際には、ある特定の時点、範囲、不確実性の程度において発生する状態とそれがもたらす効用だけが行為の結果として事前に想像されており、その想像を消費することで人々は物語というフリンジ・ベネフィット(非賃金所得)を獲得し、日々の気晴らしの一助にしている。

「偽りの物語」とポストモダンアパシー

見てきたとおり、「物語所得」は論理上必然的に、無限の可能性を持つ未来のうちの特定の一部分だけを真実として受け入れ、それ以外の可能性を排除することによって作られる「偽りの物語」を前提としたものになる。我々は投げたボールの軌道を予測することはできるし、ボールが落ちたときに地面が揺れる大きさや音の量さえも、その気になりさえすれば事前に計算することができる。しかし、そのボールを見た時に個々人が感じる情緒や、ましてやそれが「幸福」であるか否かについては、まったく正確な予測をすることができない。高度な心理学の知識によって予測を立てたとしても、それが妥当であったことを検証する手段がない*2。それゆえ、我々の行為が通時的に、範囲の制限なく、不可知の不確実性のもとで他者に与える効用について、我々は「わからない」以外の立場をとることは許されないのだ。

しかし、ある行為の結果が「わからない」という事実を正確に評価してしまうと、それは我々の受け取りを構成する一部分として機能しなくなる。受け取りが存在しなければ、支払いも存在することができない。したがって、人はアパシー*3に陥る。生活のための労働であれば、物語所得がまったくのゼロであっても最低限の労働意欲を持つことができるだろう。そのため、このアパシーNPOやボランティア団体、政治団体などの余暇を活用して行われる社会活動にとってより大きな問題として立ちはだかる。

「可能性のポリティクス」は非常に不誠実である。事実としてわからないものを、わかると強弁して止まないからだ。しかし、この幻想なくしては、人々は最低限の労働以外の何かをすることがもはや全然できないということも、また事実であろう。しかし我々は理性的な個人として、可能性のポリティクスがひとつの集団幻想でしかないことを認識し、特定の行為こそが社会善であり、あるいは正義であると主張する人々から距離を置く必要ことが求められるだろう。その上で、他ならぬ自分自身が余暇を何に充てるかという問題について、正面から取り組まねばならない。

*1:社会学の世界では「マクドナルド・カルト」と呼ぶそうだが、日英両方で調べても該当がない

*2:内観報告によるしかないが、内観報告から認知のゆがみやウソの可能性を完全に取り除くことはできない

*3:無気力