自由恋愛主義はジェンダー・ロールを強化する(改)―多様な供給と一様な需要

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高齢者層ほどジェンダー・ロールをはじめとする伝統的価値観に親和的であり、若者ほどそうではない。この考えはよく普及している割には、その原因を問われる機会に乏しい。たしかに、30年ほど前の日本において高齢者・年配者と言えば「戦前生まれ」「昭和一桁生まれ」の世代であり、教育制度からして戦後のそれとは異なっていたため、年齢と伝統的価値観への親和性が比例する原因を検証する必要は無用に思われたかも知れない。
しかし、現代において高齢者といえば、それは団塊の世代か、それ以降に生まれた世代を意味する。現代と同じような平等主義・民主主義教育を受け、新字体に親しんで育った世代だ。よく知られているように、団塊世代といえば安保闘争、ヒッピーの世代である。これは当時の(戦前世代の)大人たちの顰蹙を買っていたし、団塊世代に続く50年代世代は既存の価値観・常識が通用しない「新人類」と揶揄されている。
多くの社会学者やフェミニストが口々に「保守的」であり、頑迷であると批判する高齢者層も、若かりし頃は「保守的な」大人たちから諫められ、窘められながら生きていた革新的な世代であったのだ。

それゆえ、我々は本来「革新的な」世代であったはずの団塊・新人類世代が、今や「保守的な」世代へと姿を変えた理由について、改めて説明を試みなければならない。加齢と保守化についてはたしかに人類の一般的な相関関係が見られるかも知れないが、ジャン=ポール・サルトルは終生「保守化」することを得なかった。加齢が必ずしも保守化を招くとは限らない。たとえば、哲学者の内田樹は最近のエッセイにおいてこう述べている。

……経済活動は限度なく加速化してきた。そしていま人々はそれに疲れ始めてきた。しつこいようだが、ことの良し悪しを言っているのではない。疲れたのに良いも悪いもない。そして、「ちょっと足を止めて、一息つかせて欲しい」という気分が全世界的に蔓延してきた。

私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsのデモに参加したときである。国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。
不思議な光景だと思った。
私が知っている戦後の政治文化では、つねに若者が「世の中を一刻も早く、根源的に変えなければいけない」と主張し、老人たちが「そう急ぐな」とたしなめるという対立図式が繰り返されていた。だが、2015年夏の国会では、年老いた政治家たちが「統治の仕組みを一刻も早く、根源的に変えねばならぬ」と金切り声を上げ、若者たちが「もうしばらくはこのままでいいじゃないですか」と変化を押しとどめていた
構図が逆転したのである。

日本はこれからどこへ行くのか (内田樹の研究室)

 

こうした観察を踏まえて、本稿では「ジェンダー・ロール」に注目し、ある世代が加齢とともに保守化するという場合に、その背後に作用している因果と条件について明らかにしていきたい。

供給は多様、だが需要は一様

「子曰、性相近也、習相遠也」
(人間には生まれつきの大差はないが、その後の習慣によって大きな差が生まれるものだ。)
論語』陽貨篇

人間は生まれつき、体力や性別など多くの違いがあるが、その欲望については実は大差がない。生まれたばかりの赤ちゃんは、誰もが一様に同じ乳を求め、睡眠時間を求め、おむつの選好についても、大方一致している。赤ちゃんAによって好ましいものは、他の赤ちゃんB~Zにとっても好ましい。大衆消費社会が成立する所以である。
しかし、成長していくについれて多くの外的な影響を受け、子供たちの選好は多様化していく。ランドセルを買うときは友達と同じものがよいと言っていた子が、通学カバンを買うときには人と重複することを忌み嫌うようになる。

すなわち、人々の成長とともに選好は多様化し、その結果として、人々は相互に異なった経験や思想を持つようになる。このことは、読者諸兄の多くが首肯されることだろう。
しかし、このようにして多様な個性を身につけた人々が、恋愛という人間市場に投げ出され、相互に供給し需要する関係となった途端、ある重大な問題に直面する。それは、人間についての人々の供給は多様だが、需要は一様であるという問題だ。

我々は、例えば緑色が、あるいはブナの木が世界でもっとも 美しい、といった言明にはほとんど合意できない。なぜなら、美的感覚というものはいわば魂の個性であり、何を美とするかという観念は、個々人の多様な経験のもとに構築されているからだ。
しかし、こと性的なことに関しては、我々の選好はかなりの割合で一致する。ある人にとって美しい異性は、他の多くの同性にとっても同じように美しい。だからこそ、AKBやジャニーズといったアイドルが存在できるし、歌舞伎町の風俗店においても、特定の娼婦が多数の男を引きつけることが可能になるのだ。もし性的なものに関する選好が多様であるなら、人はもはや美人である、ブスであるといった言葉を使わなくなっているだろう。

この断絶は、ハイエクの議論によって一部説明できる。ハイエクは、全体主義諸国において常に最悪の野蛮な者が指導者に選ばれた理由について、「人々の意志の知的かつ高度な次元に訴えて全体の合意を得ることは困難だが、低俗で動物的な意志に訴えるなら全体の合意を得ることは飛躍的に容易となるからだ」と説明した。それはドイツにおいてはユダヤ人を諸悪の根源とする「背後の一突き」に代表される言説であり、あるいは連合国への復仇を訴えるナショナリズムでもあった。

とすれば、政治・思想のことや美学、善悪のことでは永遠に合意できない人々の中でも、こと異性のこととなれば容易に合意に達せられるという傾向にも納得がいく。性欲という人間の欲求のなかでもすぐれて動物的な部分において、人々の需要は限りなく一様に近いのだ。

恋愛市場の拡大と競争の長期化

このように多様な供給(個性)を持った人々が、一様である他者の需要(性欲)に合わせて自分を作り変えていく過程こそが、「ジェンダー・ロール」を身につけるということではないだろうか。

大人しくて料理が得意で母性的な、といった女性の一般的なジェンダー・ロールは、一貫して「男性にとって都合の良いように」作られてきたとフェミニストは教えている。ここでは、小生はこの言説を肯定したい。ところがフェミニストの問題意識とは反対に、女性が自由な方法で恋愛「できる」ようになればなるほど、ジェンダー・ロールの圧力は強化される可能性がある。

前提として、現在の恋愛市場は「完全市場」に近づいている。完全市場とは、需要側が購買行動をする時点ですべての商品の情報を把握することができ、いずれも同じコストで取引可能な市場のことだ。文明の発達によって方言が矯正され、多くの人と意思疎通が可能となり、労働の集約化のために都市生活者が急増し、さらにIT革命によってインターネット、スマートフォンが普及したため、誰もが以前と比して圧倒的に多数の異性を比較・検討した上で選択できるようになった。
この文明の発展は、恋愛至上にも商品市場と同様の変化をもたらした。第一に、顕示的消費の必要を満たすため、結婚相手は少なくとも自らの知人たちに対しては自慢できる程度の魅力を備えている必要がある。しかし、今や個人の見栄の張り合いの相手は、SNSによって飛躍的に拡大している。そこで、必然的に要求水準を引き上げる必要が生じる。第二に、都市とインターネットによって誰もが最も魅力的な異性を「見てしまう」ようになったため、現実的に手に入る異性が相対的に劣って見えるようになった。ハーバード・サイモンの限定合理性仮説によれば、人は効用(満足感)の最大化を目指して行動するものの、知的能力の限界があるために最大の効用を与える商品の存在を知ることができないため、実際の消費者行動においては、最大の効用を与える商品ではなくても、一定の水準さえ満たせば購入されることがある。これを「満足化(satisficing)」と呼ぶが、恋愛市場の量的な拡大は、人々に最大の効用を与える異性の存在を知らせてしまうために人々の満足化を妨げ、最大効用をもたらす異性の獲得への報われない努力を勧めてしまう。第三に、早期の結婚と出産を求める共同体的な圧力がかつてなく弱まったため、結婚相手を探す競争からタイムリミットが取り除かれた。

話を家電に置き換えるとわかりやすい。たとえば、家の冷蔵庫が壊れたため、中の肉や野菜が腐敗する前に別の冷蔵庫を入手しなければならないとしよう。この時、1970年代の世界であれば、街の系列店から高い代金でナショナルの冷蔵庫を買うしかなかった。仮に都市や海外により安くて性能の良い冷蔵庫があったとしても、それを手に入れるためにはあまりにも長い時間と費用がかかった。
ところが、今や全国どの地域でも、ヨドバシ・ドット・コムで注文すれば翌日までには好きな冷蔵庫が手に入る。もちろん、LGのような外資の商品も同じ条件で入手できる。さらにカカクコムのような価格比較サイトを利用して、もっとも有利な販売店を簡単に知ることができる。このような市場環境の変化の中で、地方の小規模系列店は次々と店じまいを余儀なくされた。

恋愛市場も類似した状況にある。女性を供給側、男性を需要側と仮定した場合、従来なら「ブスだけど町内には他に女がいないから」「料理が下手だけど、そろそろ誰かと結婚しないと親が承知しないから」などの消極的な理由(満足化)で求婚される可能性は失われ、男女ともに芸能人にも匹敵する魅力を備え、SNS上の他者にも自慢できるような異性をいつまでも探し続けるようになった。

そして人々は恋愛市場に留まり、年老いてもなお恋人探しを継続する。既に若くして結婚した「リア充」への羨望を捨てきれないからである。親の圧力が弱まったとしても、SNSを通じて供給され続ける既婚者層の理想の家庭像は、未婚者に絶え間のない結婚への羨望を植え付ける。多くの場合既婚者は恋愛至上上位の美男美女であるから、中高年齢層の恋愛市場は概して魅力が中位以下の男女によって構成されることになる。

中高年恋愛市場とジェンダー・ロール

中高年齢層において、男女*1が直面する最大の課題は加齢による性的魅力の低下である。恋愛市場における魅力とは性的魅力と経済的魅力の総和であるため、この年齢層における課題は加齢によって減少した性的魅力を、いかに他の魅力によって補うかという一点に収斂される。
ところが、単純な「カオとカネの交換」である若年層の恋愛市場と比べて、中高年齢層の恋愛市場は女性に不利なルールになる。以下のグラフをご覧いただきたい。

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日本の平均初婚年齢である29才とその直前においては、男女の所得の偏りは比較的小さい。若い女性は一般的な男性とは比較にならない性的魅力を誇るため、完全に売り手市場である。しかし、加齢を重ねるにつれて、独身男女の所得較差は開きが大きくなる。高い所得を得ている男性は経済的魅力を活用してより若く美しい女性を購入しようと考えるため、上方婚志向*2を前提とすると、いわゆる「アラサー」の女性たちが同年齢層かつ自分より所得の高い男性を獲得する唯一の方法は、若い女子たちよりも率先して男性の選好に適応することに限られる。それは、「男性にとって都合の良いように」作られたジェンダー・ロールに適応する努力にほかならない。
以下の表は、資生堂の調査による年齢階級別の化粧品購入金額である。化粧品は自然な性的魅力を補完し強化するものであるが、より性的魅力におとる40代以上と比べても「30代シングル」の購入金額が突出していることがわかるだろう。

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出典

伝統的なジェンダー・ロールに適応することを「保守化」と位置づけるなら、加齢とともに保守化が進行することは、中高齢女性の求婚行動の一環として説明することができる。また、男性にとっての「ジェンダー・ロール」とは家事をしない、育児をしないなど消極的かつ負担のない内容にであるから、ジェンダー・ロールに適応しケア労働を積極的に引き受け、かろうじて結婚を勝ち取ったアラサー以上の女性と同じ数だけ、自動的に発生することになるだろう。

ジェンダー・ロール否定の帰結と女性の「自由」

以上の考察を以て、ジェンダー・ロールが加齢と同時に浸透する現象について一定の説明を与えられたものと考える。ではもし、ある種の政治的圧力によってジェンダー・ロール的なものを撤廃し、たとえば義務的に男性にも育児休暇をとらせるなどのスウェーデン的な政策を実行した場合、恋愛市場にいかなるショックが加わるだろうか。

結論から言えば、それは「男女ともに平等に所得を得て結婚し、子供を産むことができる」社会の実現には貢献しないだろう。高い所得を得ている中年以上の男性にとって、ジェンダー・ロールに適応しない(献身的でない)同年代の女性をより若い女性の代わりに選択するメリットは存在しない。ゆえにジェンダー・ロールが禁止されてしまえば、彼らは単により若い女性に食指を伸ばすことになるだろう。そしていったん売れ残ってしまったアラサー以上の女性は結婚を諦めるか、上方婚志向を諦めるかの二択を迫られることになる。だが、後者を選択する女性の数は多くはないだろう。
結果として、ノルウェーのように、貧困国からの若い女性の「輸入」が常態化するはずだ。

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(Think outside the box様の上記記事より引用)

この図でいうnon-residentとは当然外国人のことだからこれは配偶者の輸入を示したものだが、外国人妻の主要な出身国はタイ・フィリピン・ロシアであるという。いずれもノルウェーより所得水準の低い国である。

ここまでの考察を踏まえた上で、自由恋愛主義下で最終的に所帯を持ち、子孫に遺伝子を伝えることができる国民の構成について考えてみよう。女性の最終的な求婚手段であるジェンダー・ロールを容認するのであれば、一定以上の性的魅力を有する女性のほとんどと、少なくとも女性の一般的な水準以上の所得のある男性が最終的に伴侶を見つけることができるだろう。いっぽうでジェンダー・ロールを政治的に規制するなら、性的魅力が中位の女性があらたに結婚できなくなり、その代わりに後進国で高い性的魅力を持つ女性たちが外国人妻として入国することになる。

一方で、そもそも恋愛市場というものが存在して居らず、限られた選択肢と共同体の圧力によってほぼ全国民が結婚を経験するというオルタナティブも存在したはずだ。

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自由恋愛主義とは、結局のところ「強者の自由」でしかなかったのではないだろうか。遺伝的に見れば、恋愛を自由化することによってむしろ淘汰が促進されたことになる。かつてナチスは強制によって優生学を実現しようと試みたが、自由恋愛主義は図らずしてこの残酷な目的を最も効果的に達成したと評価することができる。
性的魅力が中位以下の女性にとっては、加齢とともに男性の恣意に隷属することが求められる自由恋愛主義よりは、ほぼ自動的に婚姻が決定される一方で、意志次第ではジェンダー・ロールに適応しなくても家庭を持つことができる家父長制・共同体主義の近代社会の方が、まだ「自由」といえるのではないだろうか。

 

この記事は、2015年7月の以下の記事を全面的に改稿したものです

serve1another.net

*1:特に女性

*2:女性は自分より社会的地位・所得の低い(=尊敬できない)男性とは結婚しようとしないという傾向