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「相対的信仰」の欺瞞とICUにおける学問の理不尽性

※極めてローカルな話題となりますことをお許しください

つい先程まで、シンポジウム「宗教間対話による特別シンポジウム 生きる指針 Hidden Compass of Life」を聴講していた。

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無神論者であるライアン・ワルド氏が欠席されたのが非常に残念であったが、質疑応答も含めて、非常にしっくりこない会であったので書き留めておきたい。

シンポジウムの主な内容

内容としては、いたって普通のものであった。キリスト教、仏教、神道のそれぞれの論者が冗談を交えつつ、各宗教の内容について語った。もし各宗教についての静的な知識を得ることが目的であれば有意義なシンポジウムであっただろう。

「相対的信仰」の出現

特異であったのは、この会では三人の登壇者がみな「信仰は相対的なものである」という命題に同意したということだ。仏教のケネス氏が提起し、他の二名も積極的に同意した説明を拝借すれば

信仰とは、多くの山がある中で、どれかひとつの山を登ると言うことだ。どの山もそれぞれ個性・特徴があるものの、高さは等しく、頂上に達すれば同じような景色が見える。だからこそ相互に認め合うことが可能であるし、また、そうでなければならない。

 ということだ。

ケネス氏は宗教の意義を「救い」に見いだせるとしており、自分がある絶望の中に陥ったとき、周囲を見渡せば様々な宗教という糸が垂らされており、その中でもっとも近くにあるひとつをつかみ、たぐり寄せるようなものだそうだ。

相対的信仰と「死」に対する救い

しかし、宗教を人間の苦しみに対する救いであると捉えたとき、はたして相対的信仰は、多くの人にとって最大の苦痛である「死」*1に対する救いになり得るのだろうか。

もし諸宗教が高さの等しい山々であるとして、そのうちどの山を登っても最終的には同一の真理にたどり着くのだとしたら、人がその中でも特定の山を上るという決断を説明することができない。

他方で、キリスト教を代表する森本あんり教授はキリスト教の殉教者の例を引き合いに出し、「自分の命より大事なものがない生はみじめなものである。人が自らの生より価値があるものを見出した時、その生は尊いものとなるのだ」と発言していた。殉教者らは、例えばローマ帝国の強制を拒否し、生命と引き替えにしてでもキリスト教への信仰を選んだ人々であるが、もし「どの山を登っても同じ」だとすれば、彼らは死を選ぶ必要などなく、むしろ「ローマの神々の山」に乗り換え*2ていればよかったのではないか、ということにならざる得ない。むしろ、乗り換えていれば頂上を目指すこともできたのに、蛮勇に走ったためにその機会を失ったという意味で愚かな行為であったと評価することも可能になるだろう。

このように、ある宗教の体系が絶対的な真理を与えているということを受け入れ、信仰することこそが人に生命より高次の価値を与えるのであり、現代のイスラム過激派の活動からもわかるように、その時人はむしろ積極的に死を選びさえする。

しかし、相対的信仰は異教を否定しない。生や死、善と悪に対する見解を含む教義間の相違について白黒の決着を付けず、異教の存在を容認する。

人が死を肯定するほどの勇気を持てるのは、その宗教の世界観を含めた体系を受容し、それを生命より高次の価値であると認めたときだけだ。ところが、もし異教の存在を容認するとしたら、必然的に生死善悪に関する世界観についても二つの見解が同時に肯定され、存在することになる。すなわち、死の後には裁きの場があり、よき魂のみに永遠の生が与えられるという見解と、死の後には輪廻が待っており、言行の善さに応じて異なった来世が与えられるという見解が併存するのである。

前者の見解を絶対的に信仰している者にとって、後者の見解を同時に肯定すると言うことはありえない。なぜなら、前者の見解の真実性を前提に積み上げてきた自らの生が、後者の見解の方が正しいかも知れないという可能性を導入することによって無意味化を始めるからである*3。これでは死に対する救済にはなり得ない。ゆえに、恐怖に対する救済、なかでも死という恐怖についての救済として宗教を位置づける限りは、生死あるいは善悪に関する矛盾する見解を同時に容認することはできないはずなのだ。

ICUにおける学問の理不尽性

この点について森本教授に質問する機会を得たが、時間のせいもあり散々「What's your point?」と言われたり、ハンドジェスチャーを示されたりなど様々な手段で愚弄され急かされた末、出てきた答えは「君が何を信じて死ぬかということについてなど、私の知ったことではない!」であった。そんなことは訊いていない。

一方で、仏教のケネス氏は「仰るとおり信仰とは絶対的なものである必要があり、実際私にとって仏教は絶対的なものであるが、しかし多くの宗教が存在するこの世界でどう共存できるかと言うことを考えれば、諸宗教の存在は山々のようなものと捉えるほかないのである」という意味の回答をくださった*4

ケネス氏の立場は、ICU的な学問への姿勢と非常に親和的なものであったようにおもう。というのも、思索を開始する以前に「世界は平和であらねばならい(=宗教戦争など起こってはならい)」「人類は平等でなければならい」といった大前提を導入し、それに抵触しない範囲で思索を開始するからだ。その結果現れた結論がいかに矛盾したものであったとしても、「大前提」を疑うことはけっしてしないという思考態度は学内のどこであっても見られるものだ。

その結果が、森本教授のように「他の山」に上ることを拒んで「生命以上の価値」を発見した殉教者たちを称揚しながらも「どの宗教も究極的には同等の価値を持つ」と言ってのけるダブルスタンダード、または二重思考であり、あるいは八代尚宏教授の「女性の社会進出」を無謬の前提とするために上方婚志向を否定し、婚姻率低下の原因を(本来は出生率低下の原因でしかない)「子育て支援の不足」に求め*5、あまつさえ超高水準の離婚率を誇るスウェーデンを称讃する自己矛盾の「フェミニズム経済学」だったのではないだろうか。

*1:正確には「死への予感」

*2:MNP?

*3:仮に「どちらも正しい」という論理的にありえない(1+1が2でかつ3であるような)考え方を試みても、「あの山の方が楽に上れたのではないか。損をしたのではないか。」と囁く心の声を消すことはできないだろう

*4:この解釈は閉会後に複数の学生に話して同意を得たので、おそらく正しい

*5:完結出生児数がほぼ一定である以上、「子育てのしやすさ」はあまり変化していないものと考えられる