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自由意思期待説ー創造論と実存主義哲学の統合

この頃、聖書とか神学とかに触れる機会に恵まれている。国際基督教大学という環境に占める部分が大きいのだが、かねてから創造論には十分な説得力がある(ただしその神が聖書の神であるかは留保する)と考えていたので、今までに考えた哲学についての見解との統合を試みた。

前提として、ここでは創造論が真であると仮定したい。宗教ごとに様々な創造論があり、最近ではインテリジェント・デザイン説やサムシング・グレイト説なるものも勃興しつつあるようだが、ここでは単純に「全知全能の創造主="神"が、地球を含む宇宙全体を創造した」という考え方を「創造論」であると定義しよう。小生が創造論を肯定する最大の根拠は、多くの物理定数をはじめとする宇宙、天体間の秩序の巧妙さである。数多くの均衡の元に地球と生命体は存在を許されており、ごくわずかにでも誤差が生じたとしたら間を置かず絶滅するというのだから凄まじい。

意思がなく、乱雑に任せられたものに秩序が宿ることはない。仮に一つの秩序が偶然成立したとしても、その秩序と整合する秩序の体系が都合よく発生するということは通常考えられない。それゆえ、宇宙全体は人類のそれと近似した意識を持った主体によって、意図的に創造されたという仮説は十分検証に値する。

本稿の後半部分では、肉体とは別個の存在である「魂」とその個別性が前提とされ、肉体的な必要以外に魂の欲求を充足する活動を「自己実現」と位置づけている。魂についての過去の考察が流用されているため、必要に応じて以下を参照してほしい。

支払いの思惟喚起作用

少し唐突になるが、小生はかねてより「支払いの思惟喚起作用」なる概念を暖めてきた。言ってしまえばごく自然なことなのだが、人の活動は何かを支払う活動と、受け取る活動に二分することができる。たとえば学校や職場に通ったり、そこで労働に従事するのは支払いである。また、ワインセラーから白ワインを取り出すのも、扇風機のスイッチを付けに行くのも支払いである。体内からエネルギーが流出してゆく。一方で、ワインを飲み干す喉のや胃の働きや、落ち着いた場所で鑑賞するテレビ、扇風機から流れ出る涼風に当たることは受け取りであるといえる。食事や情報など、何らかのエネルギーが流入してくる。また、死という現象は、体内の器官が衰弱したり、怪我やウイルスの活動によって過剰なエネルギーが体内から流出し、生命の維持にどうしても必要な毎秒ごとの支払いが維持できなくなる現象として捉えることができる。ソビエト連邦の計画生産体制と同様に、体内の器官は相互に連携しておりどこか一カ所が故障すると全体が機能しなくなるように設計されているので、体内の容積のごくごく一部を占める箇所における集中的な支払いの結果、生命機能が失われることはよくある。
「支払いの思惟喚起作用」とは、人間によって行われる支払いの大部分が苦痛として意識に上るため、ほとんど必ず意図的・打算的なものとなり、その支払いの対価が十分なものであるかどうか、あるいはその支払いをいかに能率的にこなすかについての合理的な思考、さらには、そうした支払いに充ち満ちた人生の存在意義についての反省を促すきっかけになるという作用をまとめたものだ。
自分や誰かのために料理をするとき、人はそれをもっとも迅速かつ安価に済ませようとするし、面倒だと感じるので、その不快感を補償するだけの対価を何らかの形で受け取らずにはいられない。しかし、母が調理してくれた食事を食べるとき、多くの場合は、それがいかに手間であったか、どんな点が工夫されているかなどといった考えは起こりがたい。非常に道徳的な人であっても、調理をした本人と同等以上の思惟をすることはあり得ない。同じように、YouTubeに投稿する番組を作る人は装飾から音響までの様々な工夫を凝らし、動画編集に要した苦労に見合うだけの広告収益や視聴者数、賞賛のコメントが得られるかどうかを作業をしている間中気にかけるものだが、視聴者はまったく頭を使わないし、使う必要もない。
したがって、もし人が思考によって賢明になり、知識に基づいた思考によって新たな発明をするのであれば、苦労が多く、支払いに満たされた生涯を送っている人ほど、賢明さを手に入れる機会は多いといえるだろう。

「創造」という支払い

さて、支出の思惟喚起作用を踏まえた上で創造という行為を考えると、これが非常に莫大な支払いに他ならないことがすぐにわかる。宇宙はビッグバンの瞬間から膨張を続けてきたものと考えられるが、エネルギー保存の法則を考慮すると、ビッグバンのエネルギーは現在全宇宙に存在するエネルギーと等価であるということになる。しかも、膨張の最中に地球を始めとする多くの天体が形成され、当初の熱と速度のエネルギーは多くの部分が物質に変換されてしまっているというのに、まだ膨張が継続しているという。これほどにエネルギーを要する活動が「支払い」にあたらないはずがない。もし支払いであれば、そこには行為者による意思や目的が存在しているはずであるから、「神様は気まぐれで宇宙を作った」という見解は退けられるべきだろう。
このように創造は何らかの目的を伴ったものであることが考えられるが、その目的とは一体どこにあるのだろうか。さて、支払い行為は一般的に苦痛であるため、人は最小の支払いで最大の対価、すなわち目的を達成しようと工夫を重ねる。人間の場合は知識や能力の制約から十分かつ効果的な工夫ができず、多くの時間と費用を浪費することがあるが、創造主においてはそうした制約は存在しない。つまり、創造主の目的をもっとも効果的に達成するために最適な形質を人類や宇宙のあらゆる存在に与えることができる。
とすれば、人類が存在する意義は、人類が現実に存在している形質から導き出すことができるはずだ。そして、我々は意識していてもそうでなくとも、現在行っていることを行っているまさにそのことによって、創造主の目的を図らずも達成しつつあるということになる。もしそうでないなら、創造主は直ちに我々や世界のあり方を変更することができるし、場合によっては我々が察知できないような方法で、既にそうなっているかも知れないからだ。

人類の形質について

肝心の人類であるが、一般論として、特定の単一の目的を全体で達成するようにはできていないように思われる。たとえば、創造主の目的がピラミッドを建設することにあるのであれば、我々はピラミッドを建設する以外のことにはおよそ興味も抱かないような心理状態に絶えず置かれていて、エネルギーさえもちょうどコンクリートを溶かすことでエネルギーを得る害虫のように、レンガや粘土を消化してピラミッドの建設に費やすエネルギーを作り出せるような酵素を備えていることになっていただろう。しかし現実には、新国立競技場ひとつ建設するにしても様々な意見の対立や争いが発生し、どんなに高名なモニュメントにもその価値を認める人と認めない人がおり、パルミラ神殿さえも最近、人類の意思によって破壊されるに至った。対立は人類の存在と切り離すことができない要素であるといえる。
また、無知も主要な要素である。歴史は繰り返すといわれるが、繰り返すのは学習能力が不足しているからに他ならない。これは誰かを非難する意味ではなく、もし創造主が人類に賢明であり、失敗を繰り返さず成功を更に高めていくことを期待しているのであれば、ただちに我々の記憶力は数百倍にも拡張され、飛躍的にすぐれた記憶装置を誰かが発明するように仕向けられているはずである。しかし、実際にはそうなっておらず、無知や欠乏はそのまま放置され、意思と勇気のある人が解決するのを待つばかりとなっている。
次に、飽和の性質を有していることも見逃すわけにはいけない。人類は多層にわたる欲求を抱いており、ひとつが充足されれば次の欠乏に意識が行くようになっている。だから、五〇〇年前と比べれば誰もが飛躍的に豊かな生活をしていると考えられるにも関わらず、格差を糾弾する声はやむことがない。嫉妬や怨嗟が渦巻き、生活に余裕のある人は顕示的消費に精を出す。何か一定の生活水準に到達すれば誰もが満足して活動を停止するということは、どの国でも発生しそうにない。
上のような人類の一般的な性質を踏まえれば、教会でもたまに教えられることがあり、かつ通俗的な場所ではかなりの影響力を持っている「人は幸せになるために生まれた」あるいは「人は永遠の命を得るために生まれた」といった主張は、大きな誤りであることがわかる。もしそうであれば、創造主は人から死ぬという機能を奪い去ったはずであるし、どんな現象も幸福と感じられるような心理状態に置いたはずだからだ。

自己実現は創造主の期待たりうるか

以上の議論を踏まえれば、人類が何らかの単一の状態や目標を達成するための手段として創造されたわけではないことは明らかになるものの、それでは人類の混乱こそが創造主の目的であったということになる。
もし混乱そのものが目的であり、それを観察して楽しむことが創造主の意図するところであり、単なる虚構に過ぎない人類世界を創造し、同じようなことが繰り返される歴史を展開させて遊んでいるにすぎないとしたら、それはちょうどある人間がコンピュータゲームにのめり込み、虚構の世界に生きがいを求めてキーボードを叩き続けている光景と相似形である。創造主ともあられるお方が、これほど非生産的な快楽に汲々としているものだろうか。先述のように創造とは莫大な支払いであると考えられるが、それほどまでに大きな支払いを非生産的なゲームのために行ったとは考えにくい。
とすれば、我々はただ混乱し続けることではなく、混乱と無知の中に置かれながらも、そこで何かを発見し、自ら設定する目的に従属して生きることを期待されているのではないか。人をいったん自由という刑に処しておき、その中から誰かが這い上がり、強い意志によって外界の混乱を退け、個々人の創造を達成することを期待しているのではないか。
ここで、このような反論が聞かれるかも知れない。もし人々の自己実現に創造主が期待しているのならば、自己実現が不可能な状況に置かれている人は存在していないのではないか。我々は自己実現以前に労働によって糊口の道を得なければいけないが、地球の反対側では餓死が未だに一般的である。自己実現への期待があるのならば、創造主は地上からあらゆる欠乏を既に取り除いているはずではないか。
これは非常に強力な反論である。自己実現とその結果こそが創造主の所望するものであるなら、人類が自動的に豊かになり、紀元前の昔より誰もが理想を掲げ、自己実現の欲求を充足させようとしているような、そういう世界を設計していただろう。
ここで、この仮説は修正を余儀なくされる。創造主の目的は人類全員の自己実現の結果そのものには存在しないのではないか。というのも、人々の自己実現は必ずしも他者のそれと調和しない。ヒトラー自己実現チャーチル自己実現ではあり得ないし、安倍晋三自己実現志位和夫自己実現ではあり得ないだろう。自己実現が個々人の内面にとどまらず、外界を通して行われる以上、そこには常に対立の可能性が用意されており、しかも人々の数が増え、自由になればなるほどその対立は頻発し、先鋭化するのである。さらに、達成された自己実現が誰かを不幸にしたり、誰かの価値観でいえば堕落や罪悪以外の何ものでもないということは珍しくない。世界がこのような状態にあるということは、世界人口全員の同時自己実現そのものは創造主の希望するところではない、ということを逆説的に示している。

意思への期待

結果としての自己実現が失敗した場合でも、そこに注がれた意思は記憶ないしは歴史として保存すことができる。仮にいったんは実現した場合でも数百年、数千年後には跡形もなくその痕跡が消滅し、忘却されていることは少なくない。意思の強さをはかる尺度として自己実現の成否は有用かもしれないが、遺伝子をはじめとする環境や自己実現の内容そのものによって達成の難易度が異なる以上、その有用性は限定的だろう。
達成される結果ではなく、自己実現を追求する「意思」に価値があると考えるならば、人類の様々な性質をも説明することができる。たとえば、人が様々な欲望によって常に何かの支払いに従事せざるを得ないことも、人に挑戦と思惟をもたらす目的があるのではないか。外界の様々な人や現象に触れることで、人は自らの興味がどこに在るか、すなわち自己実現の内容を決定する自らの魂の性質を知ることができる。それは外界に触れることによってしか知ることができないが、外界に向かうことは支払いであるため、何らかの動機、欲望がなければ、人はドアを開けることがなく、したがって自らの魂について知識を得ることもできない。様々な労苦を通して自らの魂についての知識を得るためにこそ、欲望と欠乏が存在するのではないか。
また、人々の価値観が異なり、どんな意見にも必ず対立する者が現れる。ゆえに、どんな自己実現もパレート改善*1的なものにならないことも、常にある人にとって不都合、困難な状況をもたらすことで、それを(主観的に)「解決する」という形で自己を発見し、さらにはそれを通して自己実現を図る機会を与えるためではないか。
繰り返しになるが、もし誰かの自己実現こそが創造主の目的であるならば、人はより有能で、まるで創造主のように何でも達成できる存在として創造されていたはずだ。

こうしてみると、かのキリスト者内村鑑三の説も非常に深みを増してくる。内村はあくまで自己実現の結果とその持続を前提としていたが、それが一部の恵まれた人にしか可能でないということを理解していた。そこで、社会のどんな人物にでも達成できる"後世への最大遺物"として、数々の困難を意思によって貫徹する「勇敢なる生涯」を提唱した。個々人の生の勇敢さはいずれ忘却される運命にあるため「遺物」たり得ないとの批判も可能だが、記憶される範囲において誰かを勇気づけることで、またその人がさらに次の世代を勇気づけるという乗数効果が期待できる点を踏まえれば、ある人の意思の強さは集合的な形で持続し続けると捉えることも可能だろう。。

たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。
それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。
われわれに友達がいない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。

 

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

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ここからは推論というより推測だが、意思という価値を通して、以下のような選別があるかもしれないのでは、と思うことがある。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。
『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。
そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。
『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』

 

新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書

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つまり、創造主は人々を特定の目的に従事する機会としてではなく、意思と自由を持った存在として創造した上で、それぞれがその自由に値するものであるか、あるいはそうでないかということを、数十年の時間を与えた上で、全知全能の立場から観察しているのではないだろうか。
それらは全て最終的に「刈り取られ」ることは間違いのないことだ。その先のことを我々は観察する手段を持たないが、もし意思そのものを試すために生命が与えられたのだとすれば、その結果に応じて何らかの選別を受けるということは十分考えられることではあるまいか。

 

*1:ここでは「誰一人不幸な人・反対する人を生み出さなず世界を幸せにすること」