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創造と忍耐について―「訓練」としての勉強必要論

この頃、哲学気取りの投稿が続いていて申し訳なく思う。経済学関連の記事を待望している読者はもう少し待ってほしい。ただいま、個人を生産要素として住居、衣料、食糧などを投入し労働を産出する企業として捉えなおす説をまとめており、目下図面の準備中である。

さて、本稿においても、前々回から引き続く、心身二元論を前提とした議論を続けたい。初学者の妄想に過ぎないと切り捨てられては元も子もないが、心の所在を松果体よって説明する、あるいは宗教のように盲目的に来世や天国の存在を提示するよりは、人間の様々な欲求という認識可能なものに根ざした仮説を展開している、という点においてのみ自負を持っている。そうでなくとも、どんなに小さな単細胞生物さえも自己保存の原理を有している中で、ヒトのみがそれに反する欲求を抱くという矛盾はもっと検討されて然るべきではないか。

さて、前回の記事は時間の関係もあり充実したものとは言い難いところがあったが、結局のところ広義の練習、すなわち反復的な訓練(discipline)や勉強という営みを肯定する結論に至ってしまった。論理的にそうなのだから仕方がないのではあるが、そもそもこのブログ自体学校教育への批判から始まったものである。それは母校への批判であった。

2年も前のことであるので未熟な点も多かろうが、とにかくあの退屈で冗長、そして官僚的な学校教育制度へのアンチテーゼとして始めた以上、その中核をなす「勉強」を肯定するか否かは、すこぶる重要な問題たりうるのだ。

高級な創造物と低級な創造物

前置きが長くなってしまった。まず、精神をより善く(健康に)するものは未知であり、その中でもとりわけ創造の営みこそが最善であり、いっぽうでより悪くするものは退屈であるということは既に論じた。したがって学校教育もセンター試験を唯一にして至高の目標として記憶の定着をはかる活動である限りは、やはり退屈(反復的)な活動であることを免れないのだ。

一方、最大の善であるところの創造の営みについて、今まで以上に仔細に観察を加えると、その中でもより高級な創造と、より低級な創造に区別できることがわかる。具体的な例を挙げるとすれば、文筆におけるライトノベルと純文学の区別がそうであろう。ページの半分以上がよく意味の分からない擬音語で埋め尽くされるかかる種類の文筆は、よくジャンクフードやポテトチップスに喩えられる。もちろん読者・消費者は高級な創造物からも低級な創造物からも本人にとって最大の快楽を享受しており、多くの選択肢と自由が保障されたうえで自発的にそれを選択しているのであるが、しかし高級・低級の区別は直感的に疑い得ないものだ。上品、下品(じょうぼん、げぼん)と言い換えてもよいだろう。

この直感的な区別をさらに掘り下げていくと、それが能力の高低という区別に起因していることに突き当たる。すなわち、高級な創造物はそれを作るにも消費するにも、一定の能力が必要である。この場合は知能が必要とされる。知能は他でもなく前頭葉に蓄積された知識とそれを交換するニューロンの活動であり、他の筋肉や器官の働きと等しく物質的なものだ。一方で、低級な創造物はそれを作り、消費するために必要な能力の水準が低い。ライトノベルの下には、少年ジャンプに掲載されているようなワンパターンのマンガがずらりと並んでいるのだ。それは基礎的な漢字の知識さえも要求しない。

さらにもう一つの論点は、ものの消費が再帰的に個人の能力を規定するという点である。人のあらゆる能力(知識も身体的な熟練も含む)は外部からの働きかけによってしか成長しないものだから、ある時点で容易に消費できる創造物ばかり消費していては、より高級な創造物を消費するために必要な能力は得ることが出来ない。それどころか、必要とされなかった能力が徐々に退却していくため、むしろ能力を悪くする結果となる。

つまり、高級な創造物とは、それを作るにも消費するにも比較的高い能力を要求し、かつ、それを作ったり消費したりすることで、個人の能力をますます高める作用をもつ創造物のことである、と定義できる

訓練と能力の向上

もはやおわかりかも知れないが、上の定義には少しツッコみどころがある。ある創造物との関係が個人の能力を向上させるとき、いわば階段を一段昇ろうとするわけであるが、これは本来不可能なことだ。なぜある能力しか有していないにも関わらず、より高い能力を必要とする創造ができるのか。この能力の向上という現象は、さきほどの「基礎的な漢字の知識」を「より広汎な漢字の知識」に高める過程を思い起こせば容易に把握できるはずだ。

苦しいのである。

新しい漢字に出会うことは、まちがいなく未知との遭遇であり、それは精神にとって善いことであるはずだ。しかし、人間の将来的な脳の能力不足ゆえに、「未知」を自己に包摂し、創造活動に利用できるほど手なずけるためには、「未知」がもはや「既知」になったあとも、しばらくそれと付き合ってゆくしかないこの短い期間は間違いなく退屈そのものであるのだが、これを通過しないことには、現在享受している以上の未知に出会うことはできないし、未知を自ら創造することも叶わないのだ。外国語の習得がもっとも説得的な例だろう。

つまり、脳やその他の器官を訓練するための一時的な退屈を忌み嫌うことはまさに、精神にとっての「長期的期待の誤謬」といえる。もしこれを忌み嫌うなら、その人はある水準の知能で消費でき、かつ入手できる、あらゆる創造的な遺産を消費してしまい、あとには長い退屈の時間が待っていることになるだろう。他の人と共同して何かを観察したときにも、ちょうど美術品がそうであるように、知識の少ない人が得る感動は知識のある人よりも常に少ない。世界はきちんと存在するにも関わらず、それに色をつけることができない色盲的な状態にあるため、何もないようにしか思えないのだ。

学校は何故人をつまらなくするのか

以上のことを踏まえれば、まず以下の一般的な原則が導かれる。

人間の無能ゆえに必要な訓練期間の退屈は、長期的な精神的快楽のために受忍せざるを得ない

これを踏まえれば学校の勉強もスポーツの反復練習も同時に正当化されるのであるが、では、なぜ(多くの)学校はあれほど人をつまらなく、凡人の指示待ち人間に育てるのだろう?

もし学校が効果的な前頭葉の訓練の場であれば、先生の言うことをよく聞いたお利口さんの生徒ほど、早いうちにより高級な創造物を生産・消費できる人間となり、大学に入った後に何をすればよいかわからないとか、明らかに退屈な労働に何の苦痛も感じない精神が麻痺した人間が大量に出回るとかいった事態には陥らないはずだ。

しかし実際には、特に日本に入り浸った人物を中心に、まったく就活を成功させて身体の生存を確保することにしか能がない人間や、リスクを負いながらも未知の体験を得ることを厭い、駄サイクルの輪の中に偽りの共同体を作り、承認欲求を満たし合うだけの人々が多く見られるのだ*1

これは日本という国に独特の現象であり、かつ一部の例外的に自由な学校を卒業した人物にはこれが見られないことから、おおよそ日本の一般的な教育制度が彼らの精神を殺していると仮定してよいだろう。

前頭葉の訓練の場であり、人々をより高級な創造に供し得るものに育て上げるはずの学校が、なぜか卒業すると、優秀な前頭葉(豊富な知識と論理的思考力)を有していながら、創造性がまるで欠落した人間になってしまう。つまり精神をより不健康にするものを多く与えているからそうなるのだが、扱っている材料(国語から理科社会までの科目)はそれを知らない人にとって新鮮な未知の世界であるはずだ。問題はどこにあるのだろうか。

学校における知識の質的な劣化についての仮説

未知の世界を凝縮したものであるはずの教科書が、なぜか前頭葉を鍛える一方で精神を殺してしまう。本来であれば、短期的には先進を不健康にしても、長期ではそれをより善くするはずなのだ。

仮説1:高級な創造物を消費する機会が少ないから

学校において、たしかにより高級な創造物を消費する能力を人は身につけているが、当然ながら反復的な学習は精神を一時的に不健康にするものである。これは美術史を徹底的に学習した後に美術館に足を運ぶのと同様、定期的にその能力を活用して精神的な快楽を得ることで再び健康さを取り戻さなければならないのだが、現実的には間断なくテストや受験が控えているため、せっかくの知識を消費して快楽を得る機会は少ない。トレーニングのしすぎで超回復の時間をおかないようなものだ。かくして、訓練による不健康化だけが継続し、精神は6年間を終える頃にはもはや手の施しようがないほど衰弱した状態に陥ってしまう。

仮説2:生徒の個性にまったく配慮していないから

一般的に精神は未知によってより善くなるものであるが、多くの未知の中でもどの未知によって刺戟を受けるかは個々人によって異なる。ある人は歴史に強い興味を持つが、その人がガラスがなぜ透明であるかということについても同程度の興味を持ち、それを知ったときに感銘を受けるとは限らない。まったく興味がないことに関する未知の情報は、知っての通りいかに高級であっても退屈で睡眠を誘うものだ。

学校はセンター試験や学習指導要領の関係上、一部の科目を除いて個々人の興味関心に適応させることはできず、よほど広汎な興味をもった生徒でない限り、その時間の少なくない部分を「未知ではあるが退屈な」情報の暗記に費やしてしまう。興味がないことについては仮説1のような消費の機会も得られないことから、その獲得に費やされた精神の疲労は回復されずに積み増しされてしまう。

仮説3:内容が表面的であり、因果関係を捨象しているから

学校教育は各種試験への対応上、「浅く広く」の教育になりがちである。このとき、試験で問われるものが事実関係の正確・緻密な知識であることから、年表を丸暗記するような学習が行われがちである。しかし、単に歴史的事件や人物、史蹟の名称や概略と、それがなぜ発生し、相互にどう連関しているのかという因果関係も含めた知識とでは、試験で正答できるか否かは同じであっても、創造的活動に活用できる教養(=能力)の質としてはまったく異なる。結果として、表面上効果的な前頭葉の訓練であるかのように見える学校教育は、実際にはほとんど生徒の知能を向上させておらず、もっぱら暗記によって精神を疲労させているのみで終わっている。

 

以上の仮説をひとまず案出したが、果たして妥当しているだろうか。

より高級な創造物と関係するために、一時的な忍耐をともなう反復的訓練は必要だが、その疲労は高級な創造物との関係によって回復されねばならない。また、個性の持ちようによっていかに高級な創造物であっても快楽を得られないことがあるため、精神の健康性の追求は個々人がその関心によって選択した階梯によって行われなければならない。ひとまず、こうした結論に落ち着くことができるだろうか。

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*1:当然ながら筆者の主観に過ぎない。しかし、日本にはスティーブ・ジョブズが生まれない、という言葉から多少の示唆を得ることはできるだろう。あるいは市役所に足を運ぶといい。