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精神的欲求における合成・長期的期待の誤謬について

さて前回の記事では、すべての生命体は自己保存の原理に基づいて欲求するという前提が真であれば、人間に肉体とは全く別の精神(魂、心)という存在が発見できることを説明した。その上で、肉体的な満足を賢明に追求する倫理的な生を天然資源の消費にすぎないと批判し、「有から有を生み出す」唯一の手段として、自身の精神的な健康や、精神の用に供するような消費財、すなわち文化的なものの創造を位置づけた。

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いっぽうで、肉体的な欲求の充足には、つねに合成の誤謬と長期的期待の誤謬がつきまとう。そして、共同体において共有される倫理は欲望の不完全性ゆえに発生するこれらの誤謬を解決する役割を担っている。

  • 合成の誤謬
    個人にとっては合理的だが、全員が同じことをやると全員が失敗する
    (戦場において自分だけが逃走すれば間違いなく助かるが、全員が逃走すれば共同体が滅ぼされてしまう)
    (農耕に勤しむよりも他者の農地から収穫物を盗んだほうが楽であるが、全員がそれを期待して農耕を放棄すると、全員の食糧が欠乏してしまう。)
  • 長期的期待の誤謬
    短期的には合理的だが、同じことを繰り返すと不合理な結果を招く
    (目の前の食糧を食べれば間違いなく餓死しないが、食糧が常に存在する場合肥満に陥ってしまう)
    (もう5分寝れば体力は回復するので常に寝たいが、永遠に寝続ければ生産活動ができない)

人間の本能的な欲求は進化のサイクルが遅いのか、基本的には近視眼的な合理性にのみ依拠しており、これらの誤謬を解決できません。そこで人々はその地域、技術水準、階級などで別々の倫理を導入し、倫理の内面化(=道徳)の度合いを相互の承認の要件とすることで、全員がある程度合理的な長期的期待にもとづいて行動できるようにしてきたのではなないか、との仮説を呈示した。

さて今日考えたいことは、精神的な欲求の充足については同じような誤謬が発生しないのか、という問題である。

合成の誤謬

精神的欲求の根源的な動機は「未知への欲求」にある。そして、この未知は冒険、知識、そして創造への欲求に従うことで充足され、精神の健康に資すると考えられる。

仮説1
全員が文化的活動*1をすると生産活動が不足し、合成の誤謬が発生するのではないか

前回の記事では、冒険への欲求の例として登山や破壊活動を挙げた。たしかに、誰もが同時に登山や戦闘に従事すれば、生産活動が不足し身体が必要とする資源がするかのように思える。しかしこれは現代の産業構造を暗黙のうちに所与のものとしている。

たとえば生産活動の手段が狩猟であった時代には、食糧の獲得と冒険は同時に行うことができた。また、手工業の時代には、工業製品の生産と創造はやはり同時に行われていた。分業の利益を犠牲にするため非効率であることは無論だが、一定程度の生産性を放棄すれば十分に両立可能であると思われる。

仮説2
自然をその対象としうる冒険を除いて、知識への活動はつねに誰かによって創造された遺産を必要とするため創造的活動は欠かすことができない。
しかし、創造的活動は非文化的活動に従事する外部を必要とするのではないか。

労働全般をかつてのようなものではなく、現代の集約化・効率化されたものを前提とするのであれば、しごく妥当な指摘であるように思われる。例えば、オリンピック会場のザハ案は壮観であり、ザハ本人の創造性のほどが伺える。しかし、実際にこれを建設するためには、単調かつ効率的、そして危険な作業に従事する多数の作業員を必要とする。知識や冒険といった活動についても、その生活を保障するために食糧を生産する外部が必要であると捉えることが可能かもしれない。

一つの対策としては、やはりもっとも末端の労働に至るまで、前近代的な職人的労働に戻すというアイデアがありうる。オリンピック会場のれんが一つに至るまで石工職人が時間をかけて作り、その職人が口にする握り飯も零細農家が丹精込めてつくったお米、といった具合だ。

長期的期待の誤謬

仮説3
人は練習をするより実際にスポーツをやる方を好む。しかし、練習をした上でスポーツをすれば、まったく練習をしなかった場合と比較してますます大きな冒険をすることができるが、人は練習を怠りがちだ

このことも妥当しているだろう。小学生の休み時間のサッカーとなでしこのそれを比較してもらいたい。また、これはオリンピック会場と違い、効率性を犠牲にすることで練習そのものを創造的にすることは困難であるようだ。同じことが知識の活動にもいえるかもしれない。多少退屈であっても欧州史を把握した上で現在の難民の混乱や欧州統合を見ればそこには発見が満ちているが、前提となる知識がなければ単なる混乱としか映らないだろう。

個人的な経験だが、かつて世界史の授業で年表なり何なりを暗記する必要があった時はまったく退屈であったが、今では自発的に歴史書を読む機会は少なくない。精神的欲求についても身体的欲求と同じように、理性によって合理的な長期的期待を形成できるのではないだろうか。

2016/03/16追記
以下の記事でこの問題を継続的に扱っています:

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*1:冒険、創造、知識への欲求を充足する活動の総称