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自己保存の原理から「精神」の存在まで、演繹の旅

先日Twitterにおいてあらかた書いてしまった感があるが、念のためブログにも書き留めておきたい。以前の考察によって、以下の前提を置くことで精神(=心、魂など)の存在を疏明し、その性質についていくつかの発見を得ることができた。

前提

  1. 自己保存の原理
    あらゆる生命体はその存在にとって好ましからざるものを遠ざけ、好ましいものを近づけようとする

推論

人の快・不快の感覚は個人差があるとはいえ、基本的に身体の自己保存の要求と一致している。食欲・睡眠欲といったものがその筆頭であり、これは実際にそれらの欲求を全く満たさなければ身体が死に至るという実験をすることで証明できる。かといって欲求につねに従うことで身体の自己保存が十全に実現されるわけでもなく、そこには食糧ほかの資源が常に不足していた時代に形成された本能と資源が飽和した近代社会との間のラグがあり、長期的期待の誤謬を引き起こし、むしろ破滅を導いてしまう。また、共同体の全員が同じ行動をとった場合のことを予見することができていない。そこで、それを補完し、理性によって履行されるより賢明な自己保存の原理として「倫理」の存在を説明することができる。

その他の多くの快楽、たとえば友人を持つことや、誰かを服従させることといった一見複雑そうな快楽についても、身体の長期的な保存を目的とする以下の原理のうちに分類できるように思える。

  • 欠損からの自由
    (食欲、睡眠欲……)
  • 不確実性からの自由
    (承認欲求*1、性欲*2、貨幣欲……)
  • 隷属からの自由
    (支配欲、権力欲……)

これらの自由は、いずれも人間の身体保存の期待値を最大化するために有用なものばかりだ。我々は動物的な衝動*3に従うことによって短期的にこれらの自由を獲得でき、倫理的に行動することによって共同体の全員が同時に、かつ持続的にこれらの自由を獲得できるのだ。

ところが、人間にはこの原理によって説明できない欲求が存在する。

  1. 冒険への欲求
  2. 創造への欲求
  3. 知識への欲求*4

以上の三種の文化的欲求が、人には確実に存在する。ここで具体例を並べ立てることに紙幅を割きたくはないが、たとえば登山であるとか、絵画であるとか、破壊活動、岩石の成分の研究に至るまで、どう考えても(長期的にも短期的にも集合的にも)人間の三大自由にとって有用であるとは思えない行為について人はある種の快楽を感じ、古来よりそれを行い続けているのだ。むしろ、文化的欲求の追究は身体の保存にとって不合理ですらある。なぜなら、創造に充てる時間を生産活動(労働)に充てたほうが生存は確実になるし、冒険に至ってはむしろ死のリスクを積極的に引き受ける行為だからである。

前提である自己保存の原理から演繹するなら、これらの文化的欲求を発している主体は身体、あるいは脳ではあり得ない。中世の神聖ローマ帝国では、諸候が学生に対して乞食の許可状を発行したこともある。また、フェルメールレンブラントといった偉大な芸術家の中にも、極貧状態に陥っても創造活動に邁進するという"不合理な"生を見ることができる。もし人の「精神」や「魂」とは大脳の活動にすぎないとすれば、他ならぬ脳が脳自身を殺すような行為をその人に命じたということになる

しかし、脳の平生の欲求が自己保存の原理にかなっており、他のあらゆる生命体が賢明さの差こそあれ自己保存の原理に従って行動しているにも拘らず、ただ人間の大脳のみが、それも常にそうなのではなく、ある個体のある時期に限って自己保存の原理の例外であると考えることは帰納的に正当化しがたいことだ。それよりは、かかる文化的欲求を発しており、その充足の如何によって快苦のシグナルを持ちうる主体が我々の中に存在すると考えるほうが自然である。その存在こそが、いわゆる精神、魂、デカルト的には心、という実体ではないだろうか。

未知への欲求と退屈という苦痛

上で述べた三種の文化的欲求は、総合して

  • 未知への欲求

と呼ぶことができるだろう。というのも、文化的欲求から来る魂の快楽が快楽たり得るのは、それがその個人にとって未知である場合に限られるからである。身体の動きは全く同一であっても、同じ絵画を2回製作したときの快楽は2回とも同じではない。あらゆる冒険についても同じ事が言えるし、知識の追究は既知のことについてはそもそも得ない。このアイデアは、限界効用逓減法則にも通じるところがある。

以上の前提を踏まえた上で、我々にとって例外的な苦痛のひとつである、退屈というものについて見てゆきたい。退屈とは、まことに不合理な苦痛である。なぜなら、アダム・スミスが示したように、蒸気機関の発明より前から、人類は土地の改良と分業によって生産活動の効率を飛躍的に高めることに成功していた。分業によって、よく訓練されていない労働者であっても熟練工がつくるものと同じレベルの製品を生産できるようになったうえ、仕事の切り替えによって時間と集中力を消費しないことから、その速度も飛躍的に向上した。それはフォード生産方式やトヨタ式生産管理、あるいはマクドナルドといった現代の産業を見ても明らかなことだ。

ところが、長期集合的に合理的なはずの分業体制は、あろうことか「退屈」という苦痛を生み出した。産業化に伴って「従順」「勤勉」という美徳が生みだされ、分業は道徳的な是認を得ることに成功したが、それでも退屈という苦を吸収することはできなかった。アダム・スミスの時代からその弊害は指摘されていたのだ。ちなみに、人間以外の動物が何かに「飽きる」ということは見られないという。

かれはこういう努力(註:思惟や創造への努力)を払う習慣を失い…なり下がれる限りのばかになり、無知にもなる。

精神が遅鈍になるから、筋の通った会話に…できなくなるばかりか…寛大で高尚な…やさしい感情を持つこともできなくなり…私生活の義務についてさえ…多くのものについて正当な判断も下せなくなる。

自国の重大で広範な利害について、全然判断を下すことができない…特定の職業におけるかれの技巧は、かれの知的、社会的、軍事的な徳を犠牲にして獲得されるように思われる。

『諸国民の富』より

その好例として、70年代に勃興しかけた「労働の人間化」運動を挙げることができる。まだ後進国に十分な生産能力がなかった70年代において、自動車産業をはじめとする最先端の工業製品はもっぱら豊かな先進国において生産されていた。労働者の生活水準が向上してきたにも拘らず、労働そのものは旧来の単調かつ抑圧されたものであったため、労働争議の激化を続けていた。そこで、その根本的な解決として「労働の人間化」と呼ばれる取り組みがはじまった。具体的には、ライン作業員同士の私語を認めたり、サークル活動のような交流の機会を設けたり、さらには一部の製品についてライン生産を取りやめ、ひとりの労働者が一貫して生産する職人的な生産過程に切り替えるなどの試みが見られた。労働の人間化はある程度成功し、心理的効果からか生産性も向上していたが、折からのオイルショックと、後進国への生産拠点の移動によってその必要がなくなったことで、成果を見せつつも、日本に波及する前に立ち消えとなってしまった。

工場労働の単調な作業の苦しみについては、それを経験した者であれば誰でも語ることができるものだ。一応、山崎パンの工場について語られている例をいくつか引用しよう。

地方企業のパン工場で時給1300円につられて……俺の仕事は流れてくる細長い生地をねじってねじりパンを作るだけ。…生地くる、ねじる、生地くる、ねじる…6時間ずっと…俺が生地ねじってるのか生地にねじられてんのか分からなくなる……お前らパン工場だけはやめておけよ

ベルトコンベヤーに流れてくるおはぎを休憩挟んで8時間敷き紙の上に乗っける作業だったが、精神崩壊する

筆者自身郵便局の仕分けのアルバイトをしたことがあるため、こうした声には心から共感できるものがある。それがいかに身体の自己保存に対して合理的であっても、退屈は苦しみなのだ。そして、退屈の苦しみは未知への欲求の充足と対極に位置する行為から発生する。それ故、この苦しみは魂そのものが発する苦痛であると推理できるのではないか。

かりにそれが車輪の再発明にすぎないとしても、人の精神はつねに未知のものを求めているのである。自然科学の分野については、未知のものは文明が周期的に滅亡することを除けば、時間が経過し、人口が増加するにつれて多くのことが発見されてしまい、現代では今までに蓄積された莫大な既知を把握した上で新たな未知を研究する必要があり、退屈な準備期間があまりにも長くなっている。一方で、まさに同じ理由から、我々は人口と時間の平方と同じだけ歴史という探求すべき未知を持っている。時間というx軸はただ待つことによってしか増加させられないが、y軸は我々の活動、とりわけ創造への欲求を充足する文化的な活動によって意識的に増加させることができる。

死について

我々の身体と精神が別個の存在であるということから、我々は死についても新たな見解を得る。すなわち、身体の死と精神の死は無関係であるということだ。これはけっして精神の不死やイデア論のたぐいではない。ハーデースに昇るより以前に、身体が生きているうちに精神が先だって死んでしまうという可能性さえ想定できる。前項の『諸国民の富』からの引用部分などは、そのよい例ではないだろうか。

精神が一種の生命体であり、その死を招くものを遠ざけ、それをより健康にするものを欲求すると考えられる以上、我々は文化的欲求に従うほど精神を健康にし、単調な作業を繰り返すなどしてその欲求に反する行為を重ねるほど精神を蝕んでいくものと思われる。しかし、精神の生死、あるいは健康性の程度は、いかにして観察できるのであろうか。

筆者の提案は、余暇の処分方法を観察することである。精神の健康性が優れており、身体の欲求を上回るほどの力を有しているとき、人は個々人の適性と状況に応じて、未知への欲求を充足するべく創造、冒険、知識への欲求を目的とする行動をするはずだ。一方、こうした欲求を発する精神そのものが衰弱するか、あるいは既に息絶えている場合は、理性と能力(大脳の発達度合いとそのベクトル)の程度に応じて、承認欲求を満たすためだけの空虚な交際や、あるいは暴飲暴食や賭博といった身体の欲求に従属することになるだろう。実験的に、誰かにある程度の財産を与えた上で一定期間その労働を禁止してみるならば、おのずとその人の精神の健康性が観察できるはずだ。

経済活動と身体

われわれの身体は、ひとつの企業のようなものである。生産要素として衣、食、住…など多くの資源を投入し、労働力(Labor)Lないしは余暇(Leisure)L'を産出する。しかし、労働力や余暇そのものはフローであり蓄積ができないものであるのに対して、近代的生活のなかで消費される資源はある程度において天然資源というストックを消費している。

ゆえに、単に幸福な生というのは、天然資源の見地から見れば明らかな浪費である。物質世界の蓄積の一部を投入した結果、何も蓄積することなく死んでしまい、その「幸福」の感覚は死と同時に認識できなくなってしまうからだ。一方、投入した資源を代償に創造的活動を行い、人類の世界に新たな未知を蓄積することができれば、それは確実なストックとして遺され、何度使用されても摩耗することなく将来の世代の精神を涵養することができる。

内村鑑三は『後世への最大遺物』において、人が後世に遺すことができるものとして、金、事業、思想、そして「勇敢なる生涯」の4種を挙げた。どれも用い方次第であるが、いずれも最終的には創造という目的に奉仕するのでなければ、やはり我々は浪費をしたことになる*5。物質的な生産活動が無意味であると言っているわけではない。なぜなら、我々は手や眼、そして脳という物質を用いて文化的欲求を充足させるからだ。ただし、それは最低限資源を消費せず、文化的な生活が保障できないのであれば、人口はより少ない方が望ましいだろう。

精神の発生論

個々人の精神は別個のものである。なぜなら、ある人の精神が死ぬか、ひどく衰弱しても、別の人の精神は引き続き健康であることができるからだ。これは両者の関係が家族や友人といった近しい関係であっても動かないことだ。精神はおそらく物質的な存在ではないが、だからとって全体で連動しているわけではないようだ。

しかし、それでは人口が増減し、70億人にも達している現代においては、誰の精神も完全に死んではいないと仮定すれば70億個の精神が存在することになるが、では100年前からの増分である数十億個の精神はどこから発生したのだろう。

もっとも現実的かつ直感的な見解は、物質的な身体と同時に親から授かったというものだろう。この仮定が正しければ、より健康な精神を持つ親から生まれた子の精神は比較的健康であり、精神が死んだ、あるいは非常に衰弱した親から生まれた子の精神も同じ程度に衰弱しているということが考えられる。筆者は教育関係の営業職をしていた経験があるが、この傾向はある程度において真だと思われる。しかし、子が誕生した当時から既に精神が衰微していたのか、あるいは精神が衰微した親に教育されたことによって数年間の内に精神が衰微したのかということを区別することは難しい。十分に成長した成人であれば、先述のように余暇を与えることによって効果的なシグナリングを試みることができる。しかし、幼児は理性が(大脳が)十分に発達していないためこれは妥当しない。仮に健康な精神を宿していても、それを観測することができないのだ。

しかし、もし退屈が精神を殺し、未知がそれを生かすとの仮定を導入するなら、ともすれば理性がある程度発達した幼児を観察することで、生まれつきの精神の健康性を観測できるかもしれない。我々は毎日8時間ほどを睡眠という単調な作業の中で過ごしているが、これを退屈だと感じたり、これによって精神の死を招くことはない。なぜなら、それは大脳やその他の感覚が一時的に切断されており、単調であるということを精神に伝えることができないからだ。

理性が未発達の幼児は、まさに睡眠している大人のような状況にあるのではないか。もしこれが真であれば、胎児・幼児期における教育が子の精神に与える影響は非常に小さなものとなるだろう。とすれば、ちょうど理性(ここでは判断力)が芽生えた頃の児童の様子を見れば、多少の教育的影響はあるとはいえ、持って生まれた精神の健康さを観測できるのではないか。もしこの段階における観測が正確なものであれば、親の精神が健康なら子の精神も健康である、という相関はある程度正しいように思われる。

精神の生と身体の生が無関係であるならば、身体の誕生と死の瞬間においてその二つがどのように結びつき、また離れ去るのか、といったことについても一定の説明が求められるだろう。これを今後の課題としたい。

*1:天災などで家産を失ったとき、一時的にでも扶助を授けてくれる存在を外部に得ないことには、欠損・隷属からの自由を保障できないからです

*2:当然ながら子は老後のセーフティーネットです

*3:その多くは犯罪とされますが、レイプや喧嘩、あるいは食い逃げもこれにあたりますね

*4:「暗記への欲求」ではないことに注意してください。いわゆる受験生たちの暗記欲は、ごく一般的な不確実性・隷属からの自由を目的とした長期的期待の結果だと思われます

*5:あらゆる経済活動の目的は生活水準の向上である、みたいなことを述べています