人間の本質と勉強について

(高校生の時分に書いたものに体裁上の改稿を加えたものです)

 

はじめに

「これで、万物はそういうふうに―自分と反対のものから生じることが、十分にわかったわけだね?[1]
 ソクラテスは、二千年もの昔に言い当てていたことだった。寒い冬が過ぎれば夏が顔を出し、高木に実った林檎はやがて落ち、灼熱の溶岩もいずれは冷え、岩石へと姿を変える。したがって、死が生から生まれると認めるならば、生もまた死から生まれる。つまり、魂そのものはちょうど振り子のように生と死を右往左往するもので、その存在自体は永遠のものである、と説いたのだ。 

 また、こうした反対の性質を持つものを無理に衝突させた場合についても、こう説明している。

「つまり、相反する性質そのものが、互いに相手の性質を受け入れないだけでなく、それ自身がたがいに反対ではないが、常に反対の性質をうちに持っているもの、そういうものも、自分のうちにある性質と反対の性質を受け入れず、それが近づいてくると、滅びるか退散するか、どちらかであるように思われる。」

 すなわち、反対の性質を持つ事物はお互いを起源として発生するという点で本質的に同一であるが、一方で同時に存在することはできず、そうなった場合は雪に触れた炎のように、その性質を放棄することになるのだ。

 これらの法則を念頭に社会生活を検討してみると、生活上の様々な困難がよく理解できるだろう。例えば、人は一般的に愉快でない学業や職場を抛棄して、「サボり」と呼ばれる行動に出ることがある。筆者も大いに経験があるが、苦痛であるところの学業から解放されて快適であるはずが、日がな一日をコンピューター・ゲームに費やした後には、疲労感しか残らなかった。

 当然、どんな事象複数の原因を持っていることが多いが、この例を説明しうる最大の理由は、「生きている」という事実と、堕落した、すなわち死んだような生活が共存し得なかったことではあるまいか。あらゆる動物は生きている限りは動き、まったく動かないのは死んでいる場合だけだ。それでは、学校に行くのと行かないのとでは、どちらが生に近く、どちらが死に近いだろう。あるいは、学校以外にも、日が暮れるまでスポーツをするとか、そういった選択肢はどうだろう。

 つまるところ、サボることが常に苦しみをもたらすのは、本来的に生的なものである人間という存在にとって、サボるという行動がきわめて死的なものだからではないだろうか。

 

自主的行動と快苦

 筆者は高校生として常に「勉強」から逃れ得ない立場にあるが、この勉強という行為は、人間の本質にとってどういった意味を持ちうるのだろう。
 簡単に定義すると、ここでいう勉強とは、センター試験その他のテストで要求される内容についてのみ、ひたすら暗記してゆく作業のことである。具体的には古墳の名前と位置や、何十回もの書き取りを通した英単語の暗記が挙げられる。
 こうした作業について多くの高校生が努力する理由は、ひとえにそれが共通一次試験・センター試験で評価され、その結果として様々な特典が得られるということに尽きる。換言すれば、もし人がまったく自由で欠乏がなく、試験が存在しないかあるいは特典がない場合、自発的にこれらの勉強を開始する人がいるだろうか。人が自らの効用(快楽)を最大化する行動を選択するという前提を受け入れるなら、まったく自由の人が自発的にする可能性がない場合、その行為は本質的に苦しみであるといえる。しかし実際には四六時中を勉強に費やしている人がいるという事実からは、センター試験その他の大学入試から得られる特典からは、勉強の本質的な苦しみを埋め合わせてあり剰るほどの効用が期待できるということを示唆している。
 しかし、なぜ勉強は人にとって、本質的に苦しみであり得るのだろう。まず、本論で定義、例示したところの勉強の性質を検討したい。

 

勉強の性質

 勉強の性質とは、思うにこれから述べる三点で説明できるように思える。それは一静的、二画一的、三反復的であることだ。
 勉強は静的な営みである。なぜなら、暗記の対象であるところの歴史的事実に対して、新たな解釈を創造することは許されない。部首の意味やなりたちをよく理解した上でも、新たな漢字を創作する権利は与えられない。与えられた情報と解釈にとことん忠実になり、誰よりも高い再現性で暗記したものこそが受験競争の勝者となり、最大の特典を入手するのだ。
 ところが、人間は本来において動的、創造的な存在である。暗記の対象としての歴史さえも、先人たちが新たに創造してきたものの蓄積以外ではあり得ない。科学的な発見さえも、著名なトーマス・エジソンのように、既存の世界に満足することがなく、貪欲に理想を追求した人々の労苦の結晶なのだ。
 第二に、勉強とは画一的な営みであるといえる。日本においては、誰もが文部科学省が指定した内容の教科書を使用している。授業のあり方も学習指導要領に仔細に指定されており、地方の学校でも標準語を利用して授業を行なう。
 ところが、人間は個性的な存在である。指紋には一つとして同一の形はなく、東京都の渋谷のような市街では、他者と「かぶる」ことを何よりも忌み嫌う若者たちの姿がある。五十万人もの人間が同じ内容の事柄を暗記し、同一の時間に同一の試験に臨むということは、本来あり得ない事柄なのだ。
 第三に、勉強とは反復的な営みである。英単語を中心に、記憶の定着のために何度も反復して同じ作業を行なう。これを『論語』の「学びて時に之を習う、また楽しからずや」を援用して讃美する高校教師が後を絶たないが、孔子の述べた「習う」とは実践するという意味であり、中国古典の道徳を時に応じて実践し血肉にしてゆく過程の喜びを表現したものであり、たんなる知識の暗記ではないことに留意すべきだ。
 しかし、人間は漸進的な存在である。どんなにカレーライスが好きだという人も、一週間もそれを食すれば匂いをかぐのも厭になるはずだ。人の本質は、同じ作業を反復するようにはできていない。
 このように、勉強の性質と人間の性質は根本的に相反しているのだ。勉強を努力するということは、例えば飛行機で地下に潜ろうと試みたり、新幹線で歩行者に追従したりするようなものである。大変苦労するだろうが、達成したところで何らの価値も生まれない。飛行機は空を飛び、新幹線は歩行者を載せて走るべきなのだ。あたかもそれを証するかのように、我々には忘却という致命的な機能が備わっている。
 我々は、これまで「勉強」に充てていた時間を、より人間的なものに充てたほうがよい。暗記はコンピューターや書物に任せて、我々はその応用を学ぶべきではないだろうか。欧米では、太平洋戦争を学習するにあたって、「こういう場合、大統領はどう行動するべきだろう?」といった問を皆で検討するという。同じ学校教育でも、こちらの方が人間の本質に即しており、快適であることはもちろん、結果もより豊かなものとなるはずだ。
 最初に紹介したソクラテスの説によれば、相反する性質のものは両立することができない。あまり勉強に時間を割いてしまえば、人間の精神はその本質を破壊されてしまうのではないかと懸念されてならない。

 

予想される反論

 以上において、暗記中心の勉強がなぜ苦しく、我々に相応しくないものであるかを説明した。最後に、予想される反論に準備しておきたい。
 第一に、詰め込み式の教育でなければ、必要なだけの教養が身に付かないのではないかという懸念がある。この主張は一見説得的だが、もしこれが真であるなら、我々は学校で詰め込まれたこと以外の知識を持ち得ないはずだ。
 しかし、実際には誰もが自己の興味に従って手にとった書物やウェブサイトから、色々な情報を獲得し、容易に暗記している。図書館のような知識を得る手段がないのは問題だが、それが整備されてさえいれば、人々は自発的に教養を獲得できるのだ。
 また、興味に従った学習によって知識がかたよるという懸念は、本質的に意味がないものだ。仮にすべての分野の知識を均一に暗記しようと試みたところで、古代とは異なり、今や世界の情報をすべて記憶することはできない。できたとして、それを活用する期間は数年にも満たないだろう。それよりは、各自が偏った知識を専門的に蓄積し、必要に応じて他者とコミュニケーションをとり、交換するほうが合理的ではないか。幸いなことに、現代ではインターネット等の技術革新によって、コミュニケーションは飛躍的に低コスト化している。
 次に、勉強は精神的な鍛錬になり、人間性の陶冶に有効だという主張がある。実際、ある程度のストレスは人のストレス耐性を強化するという研究結果もある[2]。ただし、長期的な視点からはこのメリットも否定されねばならない。というのも、学習量の五〇の人間を誰かが六〇の学習量で追い抜き、「強くなった」とする。しかし、試験の合否は絶対的な学習量によってではなく相対的な順位によって決定されるため、また別の誰かが七〇の学習量を達成すれば、学習量六〇の人物は彼が努力によって追い抜かしたところの学習量五〇の人物と同じ立ち位置に押し戻される。すなわち、競争を通じて主体が成長するほどに要求水準も高くなるため、成長は主体にメリットをもたらさなくなる。これは、どの競争にも当てはまる普遍的な真理である。
 これが物質であれば、鉄が打てば打つほど固くなり、筋力トレーニングをすれば筋肉が増強されるように、限りなく高みに向かっていけるかもしれない。
 しかしながら、人間の精神は物質ではない。先述の研究においても、あまりにもストレスが高い場合、人は挫折し、精神病を罹患しやすくなるという結果が示されている。だから、受験競争による精神的成長の無批判な追求は、かえって多くの人の精神を破壊しかねない。
 最後に、勉強は平等な競争であるという説に反論を加えたい。この考え方は、学習効率の格差を見落としている。
 勉強において平等という言葉は、投入した努力の一単位に対して成果も同じく一単位であり、この比率は誰にとっても等しいので、試験の結果として分配される特典の比は各人の努力の量を正確に反映しており、努力は主体の意志によって行われる以上、特典の分配は各人の意志の強さに対応した正当なものだという文脈で利用される。しかし、実際には努力と成果の比率は各人の間で大きな開きがあり、主に資金量において大きく左右される。貧乏な生徒にとっての比率が一対一であると仮定すれば、裕福な生徒が優れた参考書や予備校のサービスを購入した場合、それは一対五にも十五にもなる。また、遺伝子的に暗記に適した脳の持ち主は、その比率に加えて二、三倍の倍率を得ることも出来るだろう。
 こうした格差さえも「やる気」があればカバーできるという主張も見受けられるが、こうした言説は社会学の研究によってすでに否定されている。三浦(二〇〇五)によれば[3]、所得の格差は希望の格差としても現れるという。すなわち、有産階級の子弟が勉強を一単位するのに必要な精神力を一とした時、貧乏人の子弟は「希望」に欠ける分、必要とされる精神力が一〇にも二〇にもなる。平等性の幻想は、いかに恵まれていない状況にあっても、天文学的な精神力を発揮すれば有産階級と同等の成果を得られるという、人間の精神力の有限性を無視したマッチョイズムの言説に他ならないのだ。

ひとりの高校生として

 
筆者は本稿を執筆するにあたって、「進学校」を掲げる高等学校に三年間在籍し、考察の糧とした。その中で、特に進路指導の教師とは頻繁に衝突し、多くの話をした。当然教師らの中には人間性の優れていない者もいたが、教え子に対して悪意を持っており、受験競争という無間地獄に送り込んでやろうと考えていた人物はいなかった。多くの教師は生徒の将来的な成功―すなわち経済的な繁栄を願っていながら、本稿で指摘したような問題点にはまったく無自覚であった。ひたすら善意のもとに非人間的な勉強を推奨し、センター試験のためにあらゆる資源を投入していた。むしろ狡猾なのは、一見平等に見えつつも実際には所得によって勝敗が決まっている競争を巧みに制度化した文部官僚や、競争を煽り立て、その利益にあずかっている教育産業ではなかろうか。
 所得が低ければ進学が叶わないのは無論のことながら、進学の基準となる勉強自体が本質的に苦痛であるために、それを効率化するアイテムを購入しないことには、常識的な精神力では到底勝利できない。結局のところ、ごく一部の例外を除いては個々人の意志ではなく、アイテムの購買力において優れていた子女が東京大学のような名門大学に入学し、国家を指導する立場を得るのだ。こうした構造が存在する以上、利権を得ている彼ら自身がこの問題を自発的に解決することは期待できないだろう。大衆はこの構造により自覚的になり、「教育」の名のもとに行われている競争が、実際には有産階級の既得権益を正当化するものでしかないことを批判せねばなるまい。
 奇しくも、本日はセンター試験の試験日である。こうした構造を知らずに、本質的に苦しみでしかないことを、意志と忍耐力でやり抜いてきた勇者たちが、高知大学でも鉛筆を振るっている頃だ。教師たちの善意と同じように、受験生たちの努力も純粋な希望に満ちた、賞讃されるべき性質のものである。せめてもの幸運を祈りたい。

 

(平成二六年一月一八日)

 

[1] Plato, Michitarō Tanaka, and Mie Ikeda. "PHAIDON." Sōkuratīsu No Benmei. Tōkyō: Shinchōsha, 2005. 160-67. Print.

[2] Seery, Mark D., E. Alison Holman, and Roxane Cohen Silver. "Whatever Does Not Kill Us: Cumulative Lifetime Adversity, Vulnerability, and Resilience." Journal of Personality and Social Psychology 99.6 (2010): 1025-041. Web.

[3] Miura, Atsushi. Karyū Shakai: Arata Na Kaisō Shūdan No Shutsugen. Tokyo: Kobunsha, 2005. Print.