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限界効用理論から考える「承認の独占」について

限界革命」とは、経済学における効用の捉え方に「限界(margin)」を導入し、古典派から新古典派への進化を可能とした学術上の革命のことです。いつ誰々が何々の論文を、という話は忘れたので下記を参照してください。

さて、この限界革命により、経済学は効用=財の消費量であるという直感的な考え方を捨て、効用はその財がその経済主体にとって何個目に消費するものなのかによって効用が大きく異なるというより現実に即した認識を獲得し、しかもそれは数式化可能なものでした。同時に、「なぜ人はものを交換するのか」ということの根本的な理由が説明できるようになりました。

この発見のインパクトは非常に大きなものだったと思われます。当時、道徳哲学の世界で影響力を有していたのは、ベンサム以来の功利主義の考え方でした。この考え方を経済学に適用すると、生産性が向上して消費財の量が増えることは当然よいこととされますが、それを誰が消費するかについて経済学は中立の立場を取らざるを得ません。しかし、限界効用逓減を前提とすれば誰にとっても最初の1単位の消費こそが最大の価値を持つわけですから、功利主義の立場から再分配を強力に擁護することができます。従来の効用の捉え方だと全世界の土地をドナルド・トランプ氏が所有して他の者は何も持っていないのと、全世界の土地を全員で均分するのは功利的には等価であると考えられましたが、限界革命によって後者のほうが功利的に正しいということが理論づけられました*1

消費者理論

前置きが長くなりましたが、今日考えたいのは、この限界分析の理論、すなわち限界効用逓減の法則*2が人間関係にも適用できるのではないかという話です。

簡単な話です。たとえば、朝起きて学校に行く途中、近所のおばさんがにこやかに挨拶をしてくれたとしましょう。非常にフレッシュな気分になるはずです*3。しかし、もしそのおばさんが同じ挨拶を100回繰り返してきたらどうでしょう。おそらく4回程度で挨拶をしてもらったことによる効用はなくなり、あとの96回は苦痛でしかないはずです。そして、同じ苦痛であっても、5回目の挨拶より99回目の挨拶のほうが感じる不快感は強いでしょう。このとき、挨拶をしてもらった(=挨拶を消費した)時の限界効用は逓減しているといえます。

生産者理論

上述の例は消費者側、つまり何らかの働きかけをしてもらう側における限界効用について考えましたが、ではする側にとっての限界効用はどうなるでしょう。

挨拶を100回するおばさんの立場に立ってみると、おそらく最初の挨拶は、挨拶をする側のおばさんにとっても、挨拶をされる側の学生が感じるそれと同じくらいハートウォーミングな、気持ちのよいものだと思われます。一方で、100回目の挨拶は学生にとっては不愉快なものであるのは当然としても、ではおばさんにとっては快適なものなのでしょうか。

少し複雑になりますが、対人関係において行為をする主体(供給者)の効用は、行為の対象の反応によって決定されます。一方で、行為をされる主体(消費者)にとって供給者の行動はそれ自体完結したものであり、自分がそれにどう反応するかによって効用が変わるものではなく、むしろ与えられた効用に対応して反応を決めるものです*4

つまり、おばさんにとって挨拶の効用は、学生の反応(返事をしてくれる→会釈してくれる→無視される、など)によって変化し、学生はあいさつが嬉しい時ほどおばさんにとっても好都合な反応を返します。実際的には、最初の1,2回は笑顔で返事をしてくれるものの、10回を超えた辺りからは返事もしてくれなくなるわけです。つまり、挨拶を1回増やした時のおばさんの効用は、挨拶された学生の効用のそれに比例して減少してゆくことになります。

部分均衡

こうした前提を踏まえた上で、ひとつの挨拶市場を想定して、どういう挨拶と応答の組み合わせが最大の効用を生むかを考えてみましょう。

土讃線旭駅前の小さな商店街に、100人の通勤客と100人の商店のおかみさんがおり、お互いに挨拶を交わすことができるものとします。ここで高知市条例により商店街で合計100回の挨拶をしなければならないと規定され*5、誰が誰に何回挨拶するのがもっとも快適であるかを考えるものとします。また、挨拶に関する効用について、住人全員が同じ右下がりの関数をもっており、とくに通勤客の効用関数は、挨拶が2回めの時効用ゼロ、3回目以降は負の効用を感じるものと仮定します。

このとき、おかみさんo1が通勤客c1に100回挨拶した場合を考えてみましょう。通勤客は大変不愉快な思いをして、困惑しながら駅に向かうことになり、他の通勤客c2~c100は特に何の刺激も感じないまま会社に到着するでしょう。おかみさんの効用は通勤客のそれに比例するわけですから、挨拶したおかみさんo1も通勤客c1とほぼ同程度に非効用を感じており、o2~o100は何も感じていないと考えるのが妥当です。この時、商店街全体の効用はU(o1)+U(c1)であり、(常識的には)負の値をとります*6

では、おかみさんo1~o100が、それぞれ通勤客c1~c100に挨拶した場合を考えてみましょう。この場合、通勤客cはいずれも最大の効用を感じ、おかみさんの効用もそれに比例するわけですから、商店街の全員が(大きな)正の効用を感じながら正午を迎えます。第一の想定の場合は負の値になっていたわけですから、第一の想定からこの状態への移行はパレート改善であるといえます*7

そして、他のいかなる組み合わせでも以上の場合より高い効用を達成できない以上、これこそがパレート効率的な状態といえるのです。また、もし挨拶されることの効用が2回めでゼロにはならず、n回まではなんとか嬉しいと思う人が多いのであれば、条例を改定して挨拶の回数をいつも100*nに設定すればよいということがわかるはずです。

承認への応用

さて、非常に長くなってしまいましたが、小生が本来提案したいのは挨拶についてではなく、承認についてこの法則を導入せよということです。承認とは、一口に言ってしまえば「誰かに相手にしてもらう」ということです。誰かの恋人としてでも、上司としてでも、形態は問わず何かしらの働きかけをした時に正の効用を与える反応をしてほしい、ということです。今の先進国では、お金や食べ物の分配より承認の分配のほうが、よほど偏っていると考えています。

ここで、地方都市の町村合併の場合を考えてみましょう。田舎の村議会や町議会では、議員や首長はほとんど名誉職であり、給料などほとんどない場合が少なくありません。また、議員や首長に選ばれる人はたいてい地元の名士なので、お金をもらえるので政治家になろうと考えているひとは(都会と比較して)きわめて少ないといえます。

そこで、田舎の首長選挙における1票とは、その人を地域で一番の名士であると認める承認の1票であると仮定し、実際に最多数の票を得て首長になった者だけがその地域の真の名士として認められ、最大の名誉を独占的に得るものとします。

最初、土佐山村鏡村があったとします。これらの村は現実には2005年に高知市に編入されましたが、ここでは対等合併をして「南土佐村」なる村を組織すると仮定しましょう*8。両村の人口は等しく1000人ずつであり、選出された村長の名誉はその自治体の人口によって決まっており*9、村長の効用は得た名誉に比例して増加しますが、名誉1単位あたり(人口1人あたり)の限界効用は右下がりで逓減しますが、挨拶の場合と異なり負の値に転じることはないものと仮定します*10

最初、両村が独立して選挙を行っていた場合について考えます。両村の村長(a,b)はそれぞれ1000人からの承認を得たことを実感し、人口n=1から1000までの定積分の解だけの効用を得るはずです。これは負の値をとりません。

しかし両村が合併すると、村長a,bのうち当選したいずれかがn1から2000までの定積分に値する効用を得ますが、落選した方の効用はゼロになります。そして、仮定より効用関数がa,bの間で等しい以上、n=1から1000までの定積分の2倍が総効用であった合併前の状態のほうが、n=1から2000の定積分が総効用となる合併後よりも全体としては合理的といえるのです。

なぜこの状態が自然に達成されないのか

此処から先は上のように数学を利用した説明は難しいのですが、「ではなぜ上記のようなパレート効率的な状態が、自然には達成されないのか」という疑問に答えたいと思います。

それは、まさしく挨拶と異なり、承認の効用関数は負の値を取らないからです。貨幣や不動産といった流動性の高い*11財が存在しない社会においては、富の偏在は非常に起こりづらいといえます。なぜなら、例えば人口100人の村で誰かが全ての食糧を独占していたとして、彼が食糧を消費した時の限界効用は、満腹というきわめて早い段階で負の値に転じます。しかし、食糧を永久に保存することはできず、数日もすれば腐敗してしまいます。この時、彼は満腹しているにも拘らず追加の食糧を消費したり(効用はマイナス)、死蔵させて腐らせたり(効用はゼロ)するよりも、それを村人に分け与えて承認してもらうことを自発的に選択します(これが"おすそ分け"の正体でしょう。文化などではないのです)。

しかし、貨幣や不動産といった財、そして承認という財は、いくら手に入れても負の効用を与えることがありません。経済学ではこれこそが富の独占や過剰貯蓄が起こる理由であると指摘されはじめているのですが*12、同じことが人間関係についても発生していると考えられはしないでしょうか。

つまり、限界効用がマイナスの値をとらない財については、人々にそれを獲得するインセンティブが無限に働くため、結局はもっとも力のある者がすべてを獲得するのではないでしょうか。すなわち、人々が承認を与えられる範囲が広がれば広がるほど、承認の偏在は顕著になってしまうのです。具体的には、社会保障が整備されて転居が容易になったり、マスメディアが普及したり、SNSが発達したりすることによって人々が人々を選り好みできる範囲が広まるにつれて、たった一人の強者に全員の視線が注がれるようになるのです。

一つだけ不完全だと感じている点が、もし従業員の効用が社長に与えた承認の大小に比例するのであれば、人々は自発的に従来の中小企業中心の社会を維持し、「従業員は少ないが社長の面倒見がよく、かわいがってもらえる」ような経済を維持するはずだという点です。しかし実際には、「たった一人の社長は末端のパートの顔も知らず、人間的な温かみがない中で働く」経済を日本は選んだからです。

この点についてまだ論理的に説明できないのですが、恐らくその理由は合成の誤謬ではないかと予想しています。すなわち、後者の非人間的労働によって生産された財のほうが(規模の利益が働く多くの分野について)安価であるため、消費者個々人の購買行動としては非人間的労働によって生産された財を購入するほうが合理的であるため、規模の利益の度合いが強い分野(飲食、小売、製造など)から徐々*13に非効率的で高コスト(だが総承認は大きい)な生産者が淘汰されていき、数十年をかけてほぼ全ての分野で集約化が完成したのではないかということです。つまり自らの行動の結果が社会構造に及ぼす影響についても人々は合理的期待を形成することができない、ということではないでしょうか。

このことが、かつての農業や家族経営の商店が主流であった日本より、今の日本のほうがより"窮屈な"世の中になっている理由なのではないか、と考えています。

次回は、先述の商店街の例のように、人々にとって相互に挨拶することが合理的であるにも拘らず、実際に現代日本の街角で挨拶が殆ど見られなくなった理由について考察を試みる予定です。

*1:これは筆者独自の説なので経済学史とは切り離してください

*2:逓増の場合もあるとは思いますが細かいところは許してください

*3:経済学の世界においても、あくまで一般的な人にとっての効用を分析している(林檎アレルギーの人にとって林檎の効用は常にマイナスですが、かといって林檎に価値がないという議論は一般化できません)のと同じように、ここでは「万引きをした後なので話しかけられるのが怖い人」「精神疾患者であるため対人恐怖を感じる人」などについては扱わないものとします。

*4:これを人は"お礼"や"仕返し"と呼んでいますね

*5:しなかった場合は旭駅前通の交番からおまわりさんが来て拳銃を乱射し、全員に大きな非効用を与えるものとします

*6:通勤客o1が51回目まで挨拶に正の効用を感じてしまうような変態であれば正の値をとりそうですが、一般的でないためここでは考えません

*7:もし通勤客の効用関数が挨拶3回めでゼロとなっており、あるoが2回の挨拶を受けており、別のoが0回の挨拶を受けていた、という場合であればこれはパレート改善ではなくなります。ただし、全体としての効用は挨拶回数をgとしたときのUo^n(g1) - Uo^n(g2) のぶんだけ増加しているので、補償原理的には正当化されます。少なくとも功利主義者やロールズリベラリストは同意するでしょう

*8:両村とも土佐郡に属しているのですが、土佐郡土佐町は既に存在するため(村であれば厳密には可能ですが)避けたいようです

*9:町内会長より村長のほうが偉く、村長より知事が偉いというアタリマエのことを言っています

*10:自分に頭を下げてくれ、尊敬してくれる人は多いほどよいですが、一人あたりのありがたみは段々下がってくるはずです。しかし、「これ以上居ないほうが良い」という状態に至ることはないでしょう

*11:いろいろなものと交換してもらえ、かつ価値が保存されやすい

*12:つまり、日銀のマイナス金利は貨幣の流動性を下げる効果が期待されているのです

*13:まるでニーメラーの警句ですね