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福田恆存と考える"SEALDs的なもの"への違和感

Politics

東京に、再び夏が近づいている。窓の外に見える井の頭公園の木々はしぶしぶと新芽を抱き始め、コートの下に突然感じられる汗が新しい季節の訪れを否応なく感じさせる。世界は中東圏を中心に、かたやテロ、かたや難民で大騒ぎだ。格差社会が行き過ぎたためか、アメリカ大統領選挙では泡沫候補であるとされていた候補者が連戦連勝を飾っている。世界情勢を想えば、日本は比較的、いや圧倒的に平和な状態といっていいかもしれない。

しかし昨年の夏は、安保法制のことを中心に、国内の政情から目を離せない夏であった。政争は秋まで続いたが、結局は安保法制は与党により成立を見、支持率は回復に転じた。安保法制の具体的な是非については専門外であるためここで詳しく論ずることはできないが、自由民主党改憲草案を頂点とする体制改革の一環であると考えられるのであれば、その頂点たる改憲草案に一定の信頼を与えている以上、小生としては賛成の立場をとることに吝かではない。

 

(懐かしい……)

さて、今日考えてみたいことは、昨年の安保法制反対運動、"SEALDs"の言葉の節々に感じられた空虚さの原因についてである。小生が入学したICU(国際基督教大学)は同団体の"発祥の地"のひとつである*1うえ、小生自身、学園祭において安保法制をテーマとする討論会を主催した経験上、色々と知るところがあった。

だが、彼らの言葉やデモの端々に、いつも"虚しさ"を感じていた。ここで言う虚しさとは、まるでディズニーランドで取り扱われるような子供向けのユートピア、お伽噺の世界を思わせる、という意味である。実際にSEALDsのデモに友人と足を運んだこともあり(その頃はSASPLと言ったが)、幹部として活動している人間の顔も複数知っている。いささか失礼な表現ではあるが、理想を語る彼らの顔からも小生はお伽噺的な虚しさを感じ取った。理想主義者ならではの無垢さと軽薄さなのである。実際、ある宗教をプリミティブに信仰している同年代の男女からも、小生は同じ虚しさ感じ取った*2

SEALDsがいかに理想主義者であるかは、彼らの活動が最高潮に達していた時期に作られた宣伝ビデオが、「ありのままの世界より、あるべき世界を見よう」と締めくくられていたことからも明らかである。


【#本当に止める】6分でわかる安保法制

この動画で述べられている具体的な内容については、かつてこのような特設サイトを立ち上げ、知識の及ぶ範囲において批判を加えた。今にしてみれば少し恥ずかしいが。

前置きが長くなってしまったが、今日こんな記事を書こうと思ったのは、福田恆存の著による『人間この劇的なるもの』を久しぶりに手にとったところ、まさにかかる”虚しさ"をそのまま説明できる記述に出会ったからである。

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

 

 さて、福田恆存と本書について、まずは少しおさらいしよう。平生の小生はそんな丁寧な書き方はしないのだが、かつて文学専攻の知人に目を輝かせて本書の話をしようとしたところ、にべもなく「福田恆存など識らない」と叩き落とされた覚えがあるので已むを得ないと思ったのだ。

1912‐1994。東京本郷に生まれる。東京大学英文科を卒業。中学教師、編集者などを経て、日本語教育振興会に勤める傍らロレンスの『アポカリプス』の翻訳や芥川龍之介論などの文芸評論を手がける。戦後は、評論『近代の宿命』『小説の運命』等を刊行。また、国語問題に関して歴史的仮名遺い擁護の立場で論じた『私の國語教室』がある。訳業に『シェイクスピア全集』(読売文学賞受賞)の他、ワイルド、ロレンス、エリオット、ヘミングウェイ作品等がある。劇作家、演出家として劇団「昴」を主宰し、演劇活動も行なう。

ようするに戦前生まれの古き善き古典的エリートで、生粋の文学者でありながら演劇にも造詣が深かった。本書の出版は1960年であり、SEALDsは当然の事ながら、かの有名な全共闘運動(日米安保条約反対運動)よりも前に綴られた書であることに注意したい。ちなみに、安保闘争が始まると福田恆存は保守派として論壇に立ち、その名声を高めたという。とはいえ、本書が成立する過程において福田が安保闘争を予見していたと考えるのはいささか強引といえよう。

では早速、福田が自由について語ったこの箇所から、一緒に読んでもらいたい。

 

今日におけるほど、自由ということばが、安易に用いられている時代はない。現在では自由とはたんに逃避というほどの意味に用いられているに過ぎぬようだ。それは私たちにとってもろもろの「いやなこと」からの逃避を意味する。労働、奉仕、義務、約束、秩序、規則、伝統、過去、家族、 他人、等々からの逃避、それを私たちは自由と呼んでいる。そういう逃避が私達になにをもたらすかを知る前に、まず私たちは、それらのものを、堪えがたい「いやなこと」として諒解しているという事実を見逃しえない。

私たちは労働や奉仕がいやなのである。約束や義務によって縛られたくないのである。秩序や規則が煩わしい。伝統や過去が気に食わない。家族や他人は自分の気ままな行動を掣肘*3する敵としかおもわれぬ。

 福田は言葉は鋭く、本質を衝いている。SEALDsの若者たちは、絶えず"自由"、つまり"民主主義"を主張する。このふたつの言葉は、対義語として"全体主義"を置ける限りにおいて同義に用いられていると言えよう。「民主主義ってなんだ!」「これだ!」という"コール"が耳から離れなかったという読者も少なくないはずだ。

そして、SEALDsにとって民主主義=自由とは、危険から逃避するための手段であった。SEALDsのデモにおいては、「テロやアメリカの戦争に巻き込まれる」「若者は徴兵される」といった具合で、安保法制によって我々が受ける可能性がある被害が強調され、彼らが安保法制に反対する理由の中核を構成する。6月12日のデモで行われた演説から引用してみよう。

戦地に赴けば命の危険にさらされるのは当然です。しかし安倍さんは『安全を確保する』、『危険となれば撤退させる』と、現実味も信憑性も皆無の話を、壊れたレコードみたいに繰り返すだけです。

総理、確かにあなたの安全は確保されているでしょう。なぜならあなたは戦地へ行かないから。戦場に安全なんて存在しません。するなら、何処にあるのか示して、安倍さん、まずあなたが行って証明してください

危険となるのは何も自衛隊の人たちだけではありません。今年の1月末〜2月にかけて、後藤健二さんと湯川陽菜さんがシリアで殺害された事件は記憶に新しいと思います。ご存知の通り、後藤さんも湯川さんも自衛隊員ではありません。安倍さんが、『人道支援、難民支援』と言って、ISILと闘う周辺各国に2億ドルを寄付したことで、日本人が恨みの対象入りし、結果的に2人の犠牲者を生んでしまいました。

『危険な場所へ出向く方が悪い』だとか、『自己責任』だとか、そういう命の重みを切り捨てる言葉たちを、私はネット上でうんざりするほど目にしました。これについて思ったことは、今は割愛します。しかし、『テロ組織が悪いのであって、安倍さんは悪くない』。私はこれだけは違うと思います。

テロ組織が悪いのなんて当たり前です。そのテロ組織を前にしてどういう行動に出たのか、その結果どうなったのかを十分過ぎるほどに考えるべきだと思います。

よその戦争に加担するとは、こういう事です。人道支援、後方支援なんて言い分はこちらに都合の良い建前に過ぎず、敵と見なされれば狙われます。

安倍さん、そして、戦争法案に賛成している全てのみなさん、今後、あとどれだけ必要のない恨みを買いに行き、同じような犠牲を出しますか。関係ないって言ってるみなさん、テロや戦争で命を落としているのは、いつだってあなたたちのように『関係ない』人たちです。

私は、どこかと連帯して武力を強化し威嚇で作り上げた脆い平和なんかより、武力や威嚇を必要としない確かな外交を望みます。

それを『お花畑』と笑っているうちは、絶対に実現しません。笑う前にどうか本気で試みてください。だって今やろうとしている防衛の仕方では、誰かが死ぬから。その誰かは遠くの国の知らない誰かかも知れないし、あなたやあなたの家族かも知れない。もしかしたらその全部になるかもしれない。

命の危険性に対し、『可能性が低い』『大げさだよ』なんて言い訳は通用しません。その可能性を否定できない事自体が問題です

現行憲法のもと、70年間戦争による死者が出なかったのは、偶然でも奇跡でもありません。『強くなること』に躍起になって、静かに確かに続いた平和を壊さないでください。

彼らの中で、生命そのものが最上の価値を持っていることはもはや明らかだろう。そして、その生命が誰のものであるか、日本国民であるか敵軍であるかといった区別はそこに設けられていない。プリミティブな博愛主義なのである。これは関連団体である「戦争に反対するママたちの会」の「だれの子どもも殺させない」というスローガンによく示されている。

安倍政権は、安保法制を早期に成立させるため、憲法の解釈を閣議決定によって変更した。この出来事が、本来は別々の論点であった"民主主義"と"平和"を結びつけた。つまり、安倍晋三の思うがままにさせておけば、彼の目標である(とされている)「アメリカと協力して戦争をする普通の国・日本」を実現する("平和"の否定)ために平和憲法が破壊される("民主主義"の否定)という意味においてふたつの論点は相互に依存しているのだ。そして、民主主義と平和が否定されるということは、日本人が様々な流血の危険にさらされるということを意味していた。いや、既に存在している流血と危険のブラックホールの中に、新たに日本が巻き込まれると言ったほうが正確だろう。

説明が長くなってしまったが、SEALDsの自由と民主主義を守るための闘いは、流血の危険を回避するための闘い、言い換えれば危険からの自由を求める闘いに他ならなかったのだ。

だいぶ逸脱してしまったが、福田はこう続ける。

そういえば、たいていのひとはいうであろう、労働そのものがいやなのではない、今日の社会の仕組みにおいては、労働は強制労働に……生き生きとした漢字を失うのだ、と。家族や他人との人間関係も、今日では過去の方式によってしか動いていず、そのなかでは制度それ自体のために個人の生命が犠牲にされるだけだ、と。これらの理由づけは多少とも事実である。さもなければ、自由ということが、多数者の間に無為の口実として通用しないであろう。 

(中略)

ひとびとは、家族や他人の重圧から解き放たれて、なにを求めているのか。また、なにを得たのか。

おそらく、人々はなにも得はしなかった。のみならず、なにも求めてもいはしなかった。自由の名において、ひとびとは、求めいたのではなくて、逃げていただけのことである。しいていえば、自由そのものを求めていたのである。なにかをしたいための自由ではなく、何もしないための自由を

 福田が当時の自由論の先に見たものは、アメリカから流入した自由民主主義イデオロギーにともなって一斉に否定された、日本旧来の価値観、家父長制や義理など、新渡戸稲造の『武士道』に描かれていたようないっさいの道徳的規範から逃避する人々の姿であった。しかし、福田は彼らの言い訳を「多少とも事実である」として素直に認めている。では、田中はいったいなにを問題にしたのか。それは、他でもなく"自由"の内実が"無為の口実(なにもしないための口実)"でしかないことだった。それは、福田が知っていた古典的な"自由"の姿とは大きく異なっていた。

ストイックはもちろん、その前身である シニックも、またエピキュリアンにおいても、自由とは、もうすこし異なったなにものかであった。伝統的な生き方や過去の秩序が崩壊していく過渡期の混乱を眼のあたりに見て、かれらが最高の倫理として求めたものは、たしかに自由の概念であった……ストイシズムの根本が倫理主義的態度であったことは、なんぴとも否定しえまい。

ストイックやエピキュリアンが目ざした倫理的最高価値としての自由とは、もちろん、権威、他人、現実などの、自己以外の存在に自己を犯さしめぬということにあった。しかし、そのことは、ただちに、自己以外の存在の変改や抹消を意味しはしなかった。かれらは現実を現実として認めた。もしかれらに現代流の皮肉をもって報いるならば、かれらは、自己に都合のわるい現実を、むしろ自己の自由を保証し、その昂揚感をうながすための梃子として利用したとさえいえる。倫理の領域においては、つごうのわるいものが、かえって都合よくなるのだ。

理由ははなはだ物理的である。自己の力量は自己を抑圧するものの力によって測られる。ストイックやエピキュリアンの拠った原理は、ただそれだけのことである。外界はできうるかぎり、混乱していたほうがいい。現実はできうる限り、ままならぬほうがいい。自己の外にある現実がそういう状態にありながら、しかもそれにそこしも煩わされない精神の自律性、かれらはそれを自由と呼んだ。それは逃避の自由ではない。渦中に座して逃避しない自由である。あらゆる理由づけ、口実、弁解を却け、黙して語らぬ自由である。自分が自由であることを、すなわち外界の強力な現実が自己の精神になんらかの痕跡もとどめえぬ自由を、何よりも誇りとし、しかも自分がそれほど自由であることの証左をどこにも示しえぬことに、すこしも不安をおぼえぬ自由である。

したがって、かれらは常に現実のなかにあった。今日の自由人は現実に捉えられぬ用心を怠らぬが、かれらは平気で現実のわなのなかにあった。捉えられぬことに心を使うよりは、捉われぬことに心を用いたのである……それはやはり智慧である。この智慧は人間存在にとって、もっとも本質的なものであろう。

 かつて、自由という言葉は、世俗の影響力に負けじと独特の倫理を貫く哲学者たちが拠った原理であった。かれらは、外界の絶え間のない妨害のなかにじっと身を置おき、それでもなお信念を曲げぬことを誇りとし、それを"自由"と名付けた。それなのに、"今日の自由人"は"いやなもの"を避け、外界を抹消することを自由と呼んでいる。

小生には、この「現実に捉えられぬ用心を怠らぬ今日の自由人」の姿に、SEALDsの面々が重なるように思えてならない。つまり、彼らが自由を擁護するのは、単に実現すべき価値を持たないからなのだ。嫌なものを遠ざけるために民主主義は必要だが、自由や民主主義を用いて何かを新しく築き上げていくつもりは全くない。もし何か実現すべき抽象的価値*4を有しているなら、少なくとも戦争や危険を何としても避けるという意味において"自由"を口にすることはあり得ないだろう。なぜなら、「自己の力量は自己を抑圧するものの力によって測られるからだ。寝食に一度も困ったことがない裕福な人間が、自分は泥棒だけは働いたことがないと自慢したところで、それは何の意味をも有さないであろう。

ちなみに、かの内村鑑三もこう語っている。

たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。

それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。

われわれに友達がいない、われわれあに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

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もし何らかの実現すべき抽象的価値を有しているのであれば、その意志の強さを確認するために"リトマス紙"として、困難な外部の存在は必須のものとなるのだ。困難から逃避する自由を求めるSEALDsは、やはり何らの抽象的価値をも有していないのだろうか。フェミニズム界隈から問題とされたことで知られた、この発言から多くを推して知ることができるだろう。

家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。

結局のところ、SEALDsの面々が自由の先に求めていたものは、福田が批判したところの"無為の口実"としての自由だったのではないか。それはすぐれて動物的な、快楽そのものを目的とする自由に他ならない。

人間は産まれた瞬間こそ完全に動物であり、母の庇護なくしては一日として生存できず、快ければ笑い、不快であれば泣くだけの存在だ。しかし、成長とともに思惟する能力を獲得し、快・不快以外の原理に従って生きることができる(より正確には、抽象的価値からもたらされる快・不快が動物的本能からのそれを上回る)。それに拠って生きることを福田は「人間存在にとってもっとも本質的なもの」と喝破してみせた。

すなわち、抽象的価値を有さない生とは動物的であり、人間の発達段階からいえば幼稚なのだ。動物としては十分に生きているかもしれないが、人間としては空虚な生き方にほかならいのだ。自由や民主主義は求めるが、そうして手に入れた平和な空間で何かを築き上げようという意欲を有さないからこそ、彼らの瞳はどこか虚ろであり、その言葉は虚しく、"お伽噺的な虚しさ"しか有しえなかったのではないだろうか。

また、古典的自由主義者のように、現実を困難なものとして受け入れ、自らの意思の強さを示す格好の機会として相対してみせる勇気を有さなかった。SEALDsはあらゆる危険を、自らの無為を妨害する不自由として排除しようとした。苦痛が存在せず、雨すら降ることのないお伽噺の世界を希求するこうした心性こそが、彼らに理想主義者ならではの無垢な瞳を与えていたのではないか。

福田は、自由について最後にこう結論づける。

人格が完全な自律体であるのは、全体を意識し、全体を反映し、みずから意思して全体の部分になりうるということなのだ。真の意味における自由とは、全体のなかにあって、適切な位置を占める能力のことである。全体を否定する個性に自由はない。

日本という国家を人格になぞらえるなら、流血の危険に満ち溢れた世界情勢を否定し、平和主義を口実に逃げ惑うことは、少なくとも日本を自由にはしないだろう。しかし事実として、日本な長らくこの方法で、すなわち平和憲法を口実にアメリカに国防負担を押し付け、自らの財源はもっぱら公共投資に向ける方法によって経済成長を成し遂げた依存の歴史がある。

「全体のなかにあって適切な位置を占める能力」すなわち危険な国際情勢に巻き込まれかねない"普通の国"でありながらも、誘惑や抑圧に負けず、独自の理念によって行動する能力。これは恐らく、イラク戦争においてイギリスやドイツ、そしてフランスが示した種類の、「道徳的勇気」と呼ばれるべきものだ。国民に真に平和と正義を求める意思があれば、それは十分に可能なのだ。それは確実に、最初から武器・核兵器を保有しない、あるいは交戦権を放棄するといった種類の"逃避"としての平和とは一線を画している。

個人においても、抽象的価値を有さない生は以下の記事で述べたように、ネオリベラリズム(新自由主義)に回収される運命にあり、消費者としての生、快楽と期待値の生でしかあり得ない。しかし、アメリカが軍産複合体の魔力によって絶えず戦争へのインセンティブを持ち、「無関係な人」が命を落とすのも、経済成長と消費を無条件に肯定してきた新自由主義の必然的な帰結でしかないのだ。

SEALDsは人類の生命そのものを価値あるものと措定し、生命に対する危険から逃避する手段として、民主主義と自由を求めた。一方で自由や民主主義を得た上で実現すべき抽象的価値については何も語らず、無為の日常を肯定してみせた。それゆえにこそSEALDsの言葉は虚しく、どこかに幼さを残しており、しかもそれは消費の拡大こそが幸福の拡大であると唱える新自由主義の人間観と軌を一にしている。

経済学的には、そうした享楽主義者こそが無限に貨幣を貯蔵しようと試みる人々であり、死蔵された貨幣は総需要の不足を招き、政府は失業を避けるために公共事業を余儀なくされる。その公共事業の最たるものこそが、資源によって作られた兵器を無限に消費する戦争であることは言うまでもない。

そうでなくとも、本来必要のないところに政府がつくり出す需要とは、福田も認めているように「生き生きとした感じを失った」「強制労働」にならざるを得ない。そこに自然な需要がないということは、それに感謝する人々もいないということに他ならないからだ。小生は臨時雇いの警備員として多くの公共工事の現場に立ち会った経験があるが、そこにいる人々は、*5まさにこうした実存的な貧困に苦しんでいる*6

つまり、共同体に抽象的価値を要求しない現代的な享楽主義こそが慢性的な総需要不足、すなわちSEALDsが批判するような「アメリカの戦争」的なものの本源的な原因なのである。彼らの空虚な言葉の向こうには、当初から「小さな幸せ」としての平和さえ存在しなかったのだ。

*1:もう一方は明治学院大学である

*2:彼らからは信条のために、犯罪すら顔色一つ変えずに実行してみせそうな危険ささえ感じられたが

*3:[名](スル)《「呂氏春秋」審応覧・具備にある、宓子賤が二吏に字を書かせ、その肘(ひじ)を掣(ひ)いて妨げたという故事から》わきから干渉して人の自由な行動を妨げること。「掣肘を加える」「誰にも―せられることの無い身の上」〈鴎外・雁〉

*4:当然、倫理的価値をも含意している

*5:本来まったく危険がない場所を警備する警備員もその例外ではない

*6:主観的幸福度の調査においても、こうした現業職はつねに最下位をマークする。ちなみに、最上位は専業主婦や学生である。