実存主義に対する共同体の意義、および「価値中立的」なリベラル社会が新自由主義に回収される原因について

うろ覚えだが、聖書にはこんな言葉がある。

あなた方は、神と富とに兼ね仕えることはできない。

両方ともに素晴らしい物に見えても、両者を同時に手に入れることができないという場合は多い。そうしたジレンマのひとつに、個人主義(Atomism)(的なリベラリズム)と実存主義(Existentialism)が両立できないことが挙げられると思う。ここでは、可能な限りその機序を明らかにしたい。

実存的な生の要件

実存主義、あるいは実存的な生の定義を最初に明らかにしておこう。諸説があるが、ここではシンプルに「何らかの精神的価値の達成を目的とする生」と定義しておきたい。原理的な実存主義の文脈では、この精神的価値は社会的なものや宗教的なものを乗り越えて自ら構築していかねばならないという説もあるが、この論法は、特定の精神的価値がそれらの外的な影響から無縁であると証明することができないため無意味であると考える。少なくとも、何らかの自然言語で表現される限りでは、社会的、外的な影響から無縁であるということはできないだろう。

人が生きるにあたって、食糧や衣料といったいくつかの必需品のみならず、他者からの精神的な承認も同じように必要としていることは、今更論ずるまでもない。欲求段階説によれば、最低限の実物的な要求が満たされた後、人は”社会的欲求”としていわゆる仲間を求め、次いでその仲間の間で特に尊敬される人物になりたいと望む。それさえも満たされれば、ただ尊敬されるだけではなく自分にしかできない、交換・置き換えが不可能な方法でその尊敬を維持・成長させたいと考えるようだ。

しかし、前回の記事で少し触れたとおり、人の行動原理は好ましい物を近づけ、好ましくないものを遠ざけることにある。好ましさの判断主体は個々人に他ならない。

そして筆者は、何らかの啓蒙主義的な立場を取らないかぎりは、ある主体が個人単位でも共同体という単位であっても、特定の他者を好ましくないとして排除する権利は否定できないという認識に至った。

では、実存的な生を追求する人とそうでない人の間で他者に対する承認の可否、摂取/排除の関係はどのように異なってくるのだろう。

精神的価値の優越

精神的価値、すなわち理性によって意識的に選択される価値観は、時に本能にさえ優越する。その最も顕著な例として、アドルフ・ヒトラーの側近でドイツ帝国の宣伝啓蒙相、そして首相を務めたヨーゼフ・ゲッベルス夫妻を挙げることができるだろう。ゲッベルスは当然の成り行きとしてヒトラーとともに死なねばならなかったが、夫妻には6人の子があった。種の保存という観点からは、いや、そのような理屈を持ちださずとも、妻と子供だけは逃がして血統の存続を図ることが望ましい。しかし、妻の強い希望もあり、夫妻は自らの死の直前、6人の子を全員殺害してしまった。その理由は、自らの子がナチズム以外の思想によって教育されることを嫌ったためだったという。

子殺し、親殺し程ではないにしろ、同胞や親しいはずの側近を思想的理由で処断した例は、歴史の必然、絶対主義を掲げた共産圏を中心に枚挙にいとまがない。すなわち、実存的に生きる意欲が強ければ強いほど、本能的・直感的には保護の対象になる他者さえも、躊躇なく排除してしてしまう傾向があるといえるだろう。それが理性の力なのだ。

すなわち、誰もが実存的な生を実現している社会、これを「実存主義社会」と名づけてみよう。この社会において、承認の基準は現代のような「利益と不利益」とは明確に異なるだろう。しかし、決して手放しで賞讃できるようなものではない。それはつまり、承認の基準が「自らのイデオロギーに親和的であるか否か」に置き換わるということだからだ。

家族・地域共同体における自由

多くの場合、幼少期からの長期的な教育の結果として、家族内では価値観が統一されている場合が多い。かつての家父長制の時代には価値観が共通した地域内で縁組が行われ、恋愛至上主義の時代には男女が自発的に相互に似通った価値観の相手を選択したため、結果として家庭内の思想・価値観における統一性は、現在においても維持されているように思える。

再びジェンダーの話になるが、日本の教育は先進的と呼ばれている諸国とは異なり、いまだに「家族」という価値観や恋愛という価値観を、教育や制度において肯定的な形で普及させることに成功している。また、いわゆるポリティカル・コレクトネスへの強制も少なく、性規範を所与のものとして要求する様々な制度(男・女しか選択できない行政文書など)がまったく存続している。

現代のリベラルの論者は、フェミニストを中心に、あらゆる場面において特定の価値観への同意を要求するような構造を、"抑圧"という言葉を用いて批判している。彼らによれば、あらゆるマイノリティが苦しむのは、制度や共同体、そして様々な言説が、マイノリティの存在そのものやそのあり方を、暗黙または明示的な方法で否定しているからだ。そのため、アメリカではおもちゃ売り場から男女の分類を取り除くことや、トイレの男女表示を取り除くことなどの取り組みが実際に行われており、国家や制度は次第に"中立的"なものに変化を迫れている。ジェンダーのみならずエスニシティの面でも同じ状況が進展しつつあり、以下の記事はその好例といってよいだろう。

その先端を行くのがライシテ、すなわち世俗主義を標榜するフランス共和国だが、こうした共同体は次に示すような二通りの末路をたどるように思えてならない。

価値中立的な共同体

第一の道は、取りも直さず「万人の万人に対する闘争」の世界である。精神的価値やイデオロギーを強く信奉する者にとっては、それは利益や愛情、その他あらゆる本能を超越する価値となり得る。そのため、いかに同胞である、家族であるといっても、それが価値中立的な共同体にすぎず、構成員の思想的統一に失敗した場合には、教育が充実し、誰もが何らかの精神的価値を所有すればするほどに、絶え間のない足の引っ張り合いの社会になるだろう。

人々が少しおとなしければ、相互に破壊し合うまでに至らず、無関心で済まされる可能性もあるかもしれない。その社会において、人々は孤独であり、葦のように弱い存在であり続けるだろう。精神的価値を表現する方法としての文学や美術も、成功は望みにくい。なぜなら周囲の他者が不断に無関心の態度を示し、少しでも成功の芽が見られれば直ちに破壊しにかかるからだ。

こうした孤独に打ち克ち、なお精神的価値を実現できるのは、ごくごく一部の"超人"に限られるだろう。そうした社会が量的な意味で文化的に貧困であることは疑いようがない。歴史に謳われるウィーンや、バルト海の真珠=タリンような文化的市街はもはや出現する方法がないだろう。

第二の道は、いわゆるポストモダンニヒリズムの世界である。現代はこれに近いだろう。また、第一の道を経由して、人々が相互の足の引っ張り合いに疲弊した結果としても出現しうる。こうした世界では、結局のところ精神的価値を追求することは争いしか生まないと考えられ、人々はそれを放棄している。あるいは、リベラリストの言うように共同体や国家の暴力性が指摘され、結果として共同体は精神的価値から引き離され、信仰は希薄となり、単純に"忘れられる"。

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こうした社会において、人々の行動・承認の原理は特段の精神的なポリシーを持たなず、快/不快に対する反射的な選好である。人々に利益をもたらす主体が賞賛され、そうでない主体は放棄される。当然ながら、精神的な意味を持たない快楽は貨幣と、それによって購入できるあらゆる財によってもたらされる。人々の貨幣欲はさらに拡大し、経済成長は当然のごとく善とされる。

これは消費財の増加を人々の福利の実現と同一視し、それを最も効率的に実現する手段として「市場」を擁護するネオリベラリズム=新古典派経済学の(非)哲学的前提と完全なイコールで結ばれることに注意してほしい。個人の自由やダイバーシティ(多様性)といった政治左派の理想は、精神的価値に対する共同体の中立を要求し、マイノリティへの抑圧を緩和するが、その代償として個々人が精神的価値に依拠して生きること(実存主義)を困難にする。共同体や制度による裏付けを失った精神的価値はやがて忘却され、ニヒリズムによる平和が出現する。

だが、精神的価値から自由な社会において人々が協力して追求しうるものは、全人類に共通する唯一の普遍的価値――すなわち消費による快楽に限定されてしまう。かくして、政治左派と経済右派は固い握手を交わすことができるのだ

リベラリズムは、ネオリベラリズムに回収される。

自由市場主義を掲げるアメリカの意向に大きく影響されている国際連合が、ジェンダー平等や差別の撤廃、移動の自由といった概念を普及させてきた背景にはこうした事情があると考えるべきだ。エスタブリッシュメント(支配階級)は、この図式をとっくの昔に承知している。

問題は、ニヒリズムの社会が多くの富で満たされている一方で、あらゆる個人や地域がその色彩を失い均質化されていくことと、その対象に人間自身さえも含まれることだ。労働は、ますます管理された、マニュアル的かつ単調なものになっていかざるを得ないだろう。そこに個性を発揮する余地はない。

これは利子生活者や年金生活者、すなわち活動時間のうち生産活動に従事する余地がほとんどない階層にとっては、空前の快適な社会空間の現出に他ならない。しかし、週のうち40時間を労働に充てる通常の労働者にとっては、圧倒的な苦役の社会でしかないのだ。この問題については、今度また詳しく論じたい。