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新自由主義にまつわる4つの主要問題(初稿)

新自由主義的な経済右派政策に起因する問題を概観するための私用メモです。じきに改稿しますが、いい加減に発表したくなったのでひとまず。乱文をご容赦ください。

 

1.人口扶養限界

新自由主義においては、人口の増加は3つの理由からおおむね肯定的に評価される。第一に、人口は生産活動のもっとも枢要な主体であり、教育された人口はそれ自体が有力な生産設備であり、生産量の増大をもたらすからだ。ゆえに、人口が増加することはそれらが次第に教育されてゆくことはそれ自体が既に富の増大であり、長期的には財の量的・質的双方の拡大生産が期待できるのだ。

第二に、人口が増加することは当然ながら総需要の増加を意味する。政府介入による総需要喚起政策(ケインズ政策)を何よりも嫌う新自由主義の立場からは、自然な総需要の拡大は市場を擁護するために必要不可欠なものと見なされる。

第三に、競争の裾野を広げ、イノベーションを活発にすることだ。多くの場合、市場競争は参加者が多いほど高速に技術革新(Innovation)が発生し、消費者により多くの効用をもたらす財が供給されやすくなる。

しかし、爆発的に増加する世界人口は、カロリーベースでは扶養可能だと考えられているが、その議論において食料の「質」は考慮されているとは言いがたい。たとえば、近代以前に生産されていた小麦と現在の小麦は質的には大幅に異なっている。現在の種は大量栽培に適しており疫病にも強く、以前と比べて美味であるが、その代償として40倍以上のグルテンを含有しており、健康上の問題が指摘されている。

また、タンパク質の主要供給源である食肉も、かつてのように放牧(今ではグラスフェッドと呼ばれている)によって生産されたものはごくわずかとなった。その多くは残飯や穀物を中心とする飼料によって飼育されており、また、ブロイラーの例を挙げるまでもなく効率的な生産のため狭い場所で高いストレスを与えられながら、栄養的にも偏った飼料を与えられて生産されている。その結果として、ほとんどの食肉は栄養価の面で以前ほど栄養豊富な食糧ではなくなっている。

つまり、食糧の総量は効率的な生産活動によって人口扶養限界を押し上げているものの、一方で消費者が容易に発見できない品質の低下が進んでいる。食糧生産を、上に挙げたものに加えて遺伝子組み換えのような未知・既知の健康上のリスクを孕んだ手段をとらずに最大化した場合の生産量は、果たして70億人以上の世界人口を扶養できるものになるのだろうか。栄養学的な観点を考慮した人口扶養限界についての検証が必要だ。

2.教育水準の下方硬直

新自由主義経済のもとでは、競争によって絶えずイノベーションが発生し、より質の高い商品が安価に供給される。イノベーションを可能にする枢要な要素のひとつとして、教育水準の向上が挙げられる。自動車産業の発展は、科学的知識や研究者、ひいては末端の工場管理者や労働者に対する教育投資の増大と無縁ではありえなかった。識字率の向上によってマニュアルに基づいた生産が可能になり、科学の進歩によって電気自動車が発明されるに至った。しかし、その次のイノベーションのためには、電気自動車を生んだ時点のそれより高度な教育水準が要求されるだろう。
新自由主義経済では、絶えざる競争によって消費者は独占・寡占の脅威から解放される。しかし、競争を継続するためには、生産者たちは絶えずその教育水準を向上させてゆかねばならない。これはすなわち、既存の知識をみな習得してしまうための時間が継続的に増大し、そうした知識を供給する教育機関への家計支出も同じように増大することを意味する。かくして、人々が任意の所得を得るために要求される教育投資は家計の負担のより多くの部分を占めることとなり、修学期間は人の一生において現在より多くの部分を占めることになるだろう。
日本のように、教育を個々の家計の負担によって行うべきことを(受益者負担)を是とする国家においては、任意の所得を得ることは本人の能力や意思の問題ではなく、その水準に到達するまでの教育を負担できるか否かの家計的状況によって決定されることになるだろう。
新自由主義の立場によれば、こうした教育水準の下方硬直を引き起こすイノベーションは消費者により多くの効用を与えるため善であるとされている。効用を絶対的な数値として計測することは不可能だが、イノベーションが起こる以前に普及していた(つまりイノベーションによって淘汰された)商品との比較において「より多い」効用を観測することは可能だからだ。
だが、まさに効用が消費者の意識化における比較によって得られるものであるがゆえに、イノベーションは長期において人類に幸福をもたらすことはない。効用とは、消費者個々人が知りうる最悪の生産物と最善の生産物の間に横たわる満足度の較差である。有機EL液晶の4Kテレビを消費したときの効用が若い世代と白黒テレビを知る世代の間で同一ではないことからも明らかなように、比較可能な生産物の範囲が世代とともにスライドすることによって、消費者効用の絶対値は増加することができず、生産物の質そのものよりイノベーションの頻度のほうがより大きな意味を持つことになる。(効用のフロー性と呼びたい)
一方で、一生において処分できる時間の総量は長くても80年前後で有限であるため、生涯所得を所与とした場合イノベーションが繰り返されるほどに被教育期間は長くなり、余暇に充てられる時間は減少する。究極的には、大学院を卒業して既存の知識をみな学んでしまうまでに50年はかかるようになり、その後ようやく競争力のある生産活動に従事できるようになり、20年も働くと退職するというライフサイクルが一般的になるかもしれない。
しかし先述の理由により消費者の効用は相対的であり、12歳から生産活動に従事できていた時代と比べて必ずしも「幸福な」生活を送っているとはいえないのだ。
(反論として、既存の知識を獲得する手段の進歩、いわば「教育効率」の増加によってこの問題は解決されるという主張が想定されるだろう。なるほど、SF映画のような大脳に直接記憶情報を書き込むことができる装置が開発されたり、ドラえもんにおける暗記パンのような商品が普及すればそうなるかもしれない。
しかし現在のところ、多少の進歩はあったとはいえ決定的な学習効率の向上装置は発明されていない。大幅な科学的知識の増大にもかかわらず、我々は科挙の時代とそう変わらない方法で「勉強」に勤しんでいる。
また、もしそうした装置が開発されたとしても、その恩恵を享受できるのはおそらく非常に高い価格になるであろう、そうした装置へ支出できる一部の家計にとどまるだろう。受益者負担を前提とする限り、多くの人にとっての教育効率は現行水準にとどまり、彼らは被教育時間を増大させるか、所得を諦めるかの選択を迫られることになるだろう。)

3.投入資源量の下方硬直

第三の問題は、投入資源量の下方硬直だ。教育水準のみならず、投入される自然資源の量も下方硬直に陥ることは容易に想定される。基本的な構図は前項と同じなので割愛するが、教育水準と労働時間を所与としたとき、より高品質の生産のためには投入資源量を増加させることが必要となる。
この傾向は質量保存の法則やエネルギー保存の法則が働く分野において特に顕著だ。東京大阪間を3時間で結ぶ新幹線を超えるリニアモーターカーを動かすためには、より多くの電力が必要となる。東京タワーより目立つスカイツリーを建設するためには、より多くの鉄鋼が必要となる。陸上自衛隊主力戦車は全備重量35tの61式戦車から、72式戦車を経て、44tの10式戦車へと進化してきた。当然ながら、単位あたりの鋼材や燃料の消費量は増大の一途を辿っている。ラーメンの激戦区において、味やサービスにおける差別化に限界が見えてきた店主たちは、大盛りを無料とするサービスを始める。
効用のフロー性によりこれらの商品がもたらす消費者効用はきわめて限られた水準にとどまり続けるが、一方で消費される天然資源の量は絶対的に増加している。天然資源の埋蔵量は有限であるため、新資源の発見・採掘の可能性は常に存在するものの、仮に土砂をエネルギーに変えることが可能となっても地球の質量より多くの天然資源を消費することはできない。いずれは破綻が訪れるのだ。
(これに対しても、たとえば現行の愛宕護衛艦排水量大和級戦艦の7分の1以下であるように、「資源効率」の向上によって克服できるとの反論が想定される。大いに説得力があるが、しかし、愛宕護衛艦を生産するためには大和級戦艦のそれとは比較にならないレベルの教育水準が必要だ。つまり、投入資源量で賄われていた負担が教育水準にスライドしており、地球が負担するか人類が負担するかの違いでしかないのだ。結局のところそれが何らかの負荷であることに変わりなく、限界効用が等しければ避けるべき性質のものであることに相違ない。)
(2,3の総称として「品質の下方硬直性」と呼ぶことが可能かもしれない。実物的でないものに対しても品質を認めるなら、4の労働密度もそれに含まれるだろう。)

 

4.生産側非効用

第2,3項においては、主に実物的な様々な下方硬直性を問題にしてきた。いっぽうで生産側非効用とは、主に実物以外のやサービスに関する問題だ。非貿易財において、品質の向上は(a)労働密度の向上と(b)応需的均質化によって達成される。
労働密度の向上とは、手待ち時間をカットし、労働への集中力を向上させることだ。たとえば、かつての家電販売の系列店は店主がテレビを見ながら客が来ることを座して待つことが普通であり、メーカーの得意分野でない商品は家電であっても扱いがなかったため手待ち時間は非常に長く、労働への集中力も低かった。しかし、家電量販店においてはあらゆる分野の家電が販売されており、大きな駐車場に多くの消費者が詰めかけるため、手待ち時間は大幅に短縮された。また、店長のような管理職が常時監視しているために労働者の集中力は極めて高い。生産性は大幅に向上したが、労働が大幅に苦しいものとなったことは言うまでもないだろう。
応需的均質化とは、消費者に最大の効用をもたらす態度に対して、すべての労働やサービスが従属することである。物流コストが下がり、競争の裾野が広がるに従って、消費者はもっとも快適なサービスを、雇用主はもっとも従順な労働者を世界中から調達できるようになった。すると、今までなら「他に選択肢がないから」と雇用されていた労働者は解雇されるようになり、失業か自己批判かの二者択一を迫られる。同様に、個人商店のようなサービスも消費者が発見する中で最も快適なサービスに追随するか、あるいは廃業するかの二者択一に直面する。根本的な原因は、人がもっとも他者にしてあげたいと思うことと、他者にしてもらいたいと思うことが往々にして一致しないことだ。多くの人は自分が貧困に苦しんでいるときは政府や親戚がどんなに大きな犠牲を払っても底なしに支援してほしいと考えるが、いざ親戚のうち一人が没落しても、自ら全財産をなげうとうという人は少ないだろう。ゆえに、消費者に最大の効用を与えるサービスは、往々にして生産者に最大限のやせ我慢を要求するものとなるのだ。
また、応需的均質化は個性を否定する。亭主の好みを客に出すという諺があるが、消費者が好むところではなくても自分の個性や信念としてやりたい、ということが次々と不可能となる。これは労働における服装の統一化などにおいて顕著だろう。消費者がチェーン営業の飲食店に最も快適な接客態度や服装を要求でき、飲食店がそうした条件に合意する労働者を低賃金で継続的に調達できるのも、競争が拡大したからに他ならないのだ。(これについては、実物的な財についても同じことがいえるかもしれない)
結果として、消費者の効用は時代を通じて蓄積されないにもかかわらず、消費者であるところの個人が従事する労働の強度は時代とともに強化され、個性や拘りは次第に否定されるようになる。一部の資本家は例外として、消費者として生活する一方で多くの時間を生産活動に従事する一般の国民にとっては、消費から得られる効用より、画一的で負荷の高い生産活動による非効用のほうが大きくなるのではないか。

 

5.まとめ

より大きな効用を求めて競争を促す新自由主義の推進力は、ほかでもなくよりよい財を消費して効用を
維持したいという我々の欲望である。多くの人にとって、効用はフローではなくストックであると理解されており、そこから敷衍されて「人類の進歩」や「よりよい社会」といったとんでもない幻想が出現する。しかし、それがストックであると思い続ける限り、まだ満足できないことの原因はつねに効用の不足に求められ、満足に至るためには「効率化」、すなわち競争の促進こそが必要だと叫ばれ続ける。
だが実際には効用はフローであり、人類は基本的に満足することを知らない存在なのだ。だからこそ、幸福の追求は消費財の品質向上に求めるのではなく、むしろ消費財の生産は必要最低限の水準にとどめた上で、それに必要な生産活動を効率化し、余暇の拡大を図ったほうがよい。時間や労力は有限だからだ。10年程度しかなかった老後の「第二の人生」が20年に、あるいは週に2日の休日が4日に拡大すれば、我々は後世により多くものを残せるだろう。生産活動に従事するとき、我々は合目的的に行動せざるを得ない。カントの言葉を借りれば、自ら定言命法的なあり方を選択せざるを得ないのだ。(小麦を収穫するという目的を達成するとき、種を蒔かないという選択は少なくともあり得ないだろう。)また実存主義の文脈で言えば、我々はリンゴの皮をむくためのナイフになるしかない、という表現も可能だろう。しかし、余暇を自由な目的で処分するときにのみ、我々は行動の目的を主体的に設定し、そのために用いる手段も他者との競争を気にかけることなく、すぐれて個性的な「こだわり」に満ちたものを選択できる。
個性的であると言うことは、常に我々の存在理由を担保するものだ。我々が我々の人生を自分にしか生きることができなかったものとして評価し、その中で遭遇する様々な困難を克服し肯定するためには、そこに必然性がなければならない。生産活動への従事と競争への従属は、つねに我々の人生を交換可能なものとし、そこに生きがいを失わせしめた元凶そのものなのだ。

J.M.ケインズは"Economic Possibilities for our Grandchildren"において、"Three-hour shifts or a fifteen-hour week may put off the problem for a great while. For three hours a day is quite enough to satisfy the old Adam in most of us!"(毎日3時間の労働、すなわち週15時間の勤務でも不足することは何もないだろう。たった3時間働くだけで、人々の罪深い欲望が満たされるようになるのだ!)と謳い、将来的には生産性の向上によって労働時間は劇的に短縮すると予測した。この考えも、効用が何らかのストックであり、ある時点で"satisfy"されるという誤解に基づいていた。こうした誤解が世の中をますます息苦しくさせているとするなら、その誤解を改めることは最適の選択肢なのではなかろうか。