読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

無秩序に膨張する「暴力」概念に関する考察:ヨハン・ガルトゥング批判

  

  1.  本稿は、ヨハン・ガルトゥングの著による『構造的暴力と平和』、そこに収められている4つの論文の中でも「暴力・平和・平和研究」に的を絞って批判するものである。経済学の分野にも足を踏み入れたあと3つの論文――「帝国主義の構造理論」「冷戦・平和・開発」「東欧1989秋」も興味深いが、特に「暴力・平和・平和研究」を選択したことには理由がある。

     最大の理由は、「暴力・平和・平和研究」が現在のことを扱っているのに対して、他の論文はもっぱら過去のことを扱っているからだ。筆者の世界認識に根ざした新規性のある批判を展開するためには、筆者の生年よりも前のことをあれこれの資料を通じて考察するよりも、眼前に広がる現実、体験を踏まえてガルトゥングの論文を考察するほうが、遥かに都合がよい。もちろん、帝国主義と極めて類似する中心――周縁の不平等の問題は今なお形を変えて存在するかもしれない。だが、搾取の構造をいかに是正するかという、我が国でも多くのリベラリストが熱中している議論に先んじて、そもそもなぜ「搾取」が是正すべき問題となりうるのか、という点を検討する必要がある。筆者の思うところでは、搾取や不平等が問題であるということは自明の理とされており、平等主義の哲学的根拠を自己の言葉で明確に示せる人物は、それほど多くないように察せられる。そこで、ガルトゥングによるかかる論文は、不平等の是正、暴力の解消といった世界の「リベラル化」のあらゆる具体的な方法論よりも、論理的に重要な位置を占めるといえるのだ[1]

     そこで本論は、読者が「暴力・平和・平和研究」(以下「論文」と呼ぶ)を読了していることを前提に、我が国における「暴力」やその周縁的概念の拡大を指摘し、「暴力・平和・平和研究」にその原因の一端を発見することを目標とする。

  2. 暴力とは何か――膨張するその定義

     我が国において、「暴力」という言葉は極めて狭義であり、強烈なインパクトを有するがゆえに、社会においてそれほど広汎な意味を表す言葉として利用されていない。ゆえに、”Violence, Peace, and Peace Research”における”Violence”の概念を、日本語における「暴力」と合同だと考えてしまっては誤解に陥りがちだ。例えば、日本語における「性的虐待」は”sexual violence”である。また、『斎藤和英大辞典』において、「殺伐な人」の例文として” a man of violence”が充てられていることも興味深い。ガルトゥングは英語における巨大な”violence”の概念を解体・整理することに骨を折ったが、日本語における「暴力」は当初よりガルトゥングが言うところの「直接的暴力」とほぼ同義であり、それ以外のviolenceには他の周縁的な語彙が充てられていることに注意を払う必要がある。

     以上を踏まえた上で、現在我が国で進行している奇妙な現象について考察したい。それは、「暴力」やその周縁的概念が、時代の流れとともにその範囲を拡大してゆく現象である。ここでは「暴力の概念的膨張」と呼ぶことにしたい。10年前は暴力でも何でもなかったものが、気がつけば「暴力」に回収され、糾弾の対象となっている。事前に何も知らされないうちに、突然「加害者」とされてしまう。「暴力」の定義が、刑法典に定義されているような厳格かつ明確なものから、事後的かつ恣意的に決定できる、被害者(であると主張する側)にとって一方的に有利なものへと変貌を遂げつつあるのだ。

     その代表的な例として、いわゆるセクシャル・ハラスメントが挙げられる。セクシャル・ハラスメントとは、刑法における強制わいせつ罪――成立の要件として、暴行ないしは脅迫の存在を要求し、「わいせつ行為」の定義も判例と(男性側の視点も含んだ)社会通念において拘束される――とは異なり、「相手方の意に反して性的な言動を行なうこと」と定義され[2]、当事者のうちの一方が恣意的に認定できる性質を帯びている。たとえば、女性に対して「今日はおしゃれだね」と声をかけることも、容易にセクハラとなりうるのだ。労務問題を専門とする東京都の弁護士法人が顧客向けに作成した資料によれば、弁護士法人は顧客から質問があった事例をセクハラであると断じた後、このように解説を加えている。

    <セクハラとは、「相手方の意に反して性的な言動を行なうこと」であり、具体的な判断基準としては、「相手方(被害者)が不快に感じ……相手方の価値観を基準として性的な言動に該当すること」であると言われています……極言すれば女性がセクハラだと感じる言動はすべてセクハラに該当します……相手方が不快感を持っている以上、全てセクハラに該当するのです>(……は中略を示す)
    弁護士法人が顧客向けに与えるアドバイスは、当然の事ながら現在の判例や司法・警察界の動向に即していることは言うまでもない。女性が事後的に「性的」かつ「不快」だったと一方的に認定されるや否や、職場を解雇されたり民事訴訟で有責を言い渡されたりするという社会的事実が既に存在することの証左だ。

     しかし、本来「セクハラ」は、より明確な具体的行為を要件としており、また、被害者が不快感を持っているか否かも、「抵抗したか」「拒否したか」という客観的な基準によって判断されていた。加害者側に自制を促すのみならず、被害者側にも「はっきりNOと言おう」と呼びかける声があった。ガルトゥングの論文から20年後の1989年、朝日新聞の誌上に『「ウチのセクハラ」、社内報で特集 広報課の女性コンビ企画』なる記事が掲載されている。記事によれば、京都中央信用金庫の社内で男女同数に対して行われたアンケ―トの結果として、「あなたにセクシュアル・ハラスメントの心当たりは?」という質問に対して、男33%、女38%の割合で「ある」と答えている。また、「どんな行為がセクシュアル・ハラスメントになると思うか」という設問に対しては、男女とも3分の2以上が「身体に触れる」ことをあげた。そして、社報には女子社員に対して「しつこい相手にははっきり不快感を告げましょう」との呼びかけが掲載された[3]

     セクシャル・ハラスメントがこのような明確な定義を有するものであり、その定義も全当事者、すなわち国民の議論によって決定されるものであれば、誰もが何をしてよく、何をしていけないかが事前にわかるのでセクシャル・ハラスメントは発生しにくくなる。しかし、片方の当事者、多くの場合女性が事後的に定義するもの――女性がセクハラだと感じる言動はすべてセクハラ――であれば、男性は何をするにも、極度に萎縮せねばならなくなる。同じことは痴漢冤罪という形でも発生しており、今や「痴漢冤罪保険」なる保険商品が人気を博している[4]

     また、この動きは我が国のみに留まるものではない。人権問題について「先進的」であると理解されているフランス共和国では、早くも1992年には刑法典が改正され、いわゆる「強姦罪」の定義に重大な抵抗が加えられた。フランスの強姦罪は被害者・加害者の性別を問わない「性的貫入行為」とされているが、それが和姦ではなく強姦であると証明するために、「被害者の激しい抵抗」を要件としていた。しかし、この改正によってこの要件は取り除かれてしまった[5]。つまり、例えば合意の上で男女が性行為に及んだとして、それによって得られる快感が不足していると感じ男性に不満を覚えた場合、男性を「迅速で,安上りで,証明力が容易で,効果的5」な刑事訴追によって告発することができる。法改正以前であれば、ラブホテルの受付嬢が体を寄せあってホテルに入る2人を目撃していれば客観的に解決した問題が、証明しようのない本人たちの「気持ち」を問題とする泥沼の審理に引きずり込まれる。我が国ではセクハラ・置換といった限定的な状況でしか想定出来なかった事態が、外国では既に強姦罪という刑法上最大の処罰が検討される事柄に関してまで拡大しつつある。

     ここでは「セクシャル・ハラスメント」を例に取ったが、”violence”の概念は客観的・先験的なものから、主観的・事後的なものへと確実に「膨張」しつつあることがわかるだろう。

  3. ヨハン・ガルトゥングの定義が孕む問題点

     今ごろ、読者諸兄の中には、あまりにも長大なセクシャル・ハラスメントの話に呆れ果て、ヨハン・ガルトゥングの話はどこへいったのだという疑問を持つ者があるかもしれない。至極まっとうなご指摘だ。そこで、前項で解説した、「客観的・先験的なもの」から、「主観的・事後的なもの」へと定義が膨張してゆく現象に、平和研究の開拓者として大きな影響力を有するガルトゥングが定義したところの”violence’がもたらした影響の考察に入りたい。

     ガルトゥングは、論文で「暴力」の定義の重要性について、以下のように述べている。

    <そこで、すべてが「暴力」をどう定義するかにかかってくる……しかしながら、誰もが同意する定義あるいは類型を示すことはそれほど重要ではない……より重要なことは、理論的に見て暴力のどの側面が重要であるか示し、思考、研究、そして可能ならば行動をもっとも重要な問題に向けることを可能にすることである。もし平和行動が暴力に反対する行動であるがゆえに高く評価されるべきであるとするならば、もっとも重要なイデオロギ―を排除することがないように十分広義に、かつ具体的な行動の基礎となるのに十分明確に定義される必要がある。[6]>
    <この暴力概念はあまりにも寛大といわねばならない。受け入れることが極めて困難である社会秩序さえも、平和と両立しうることになりうる。それゆえ、暴力概念をより広く定義することがぜひとも必要となる。[7]>

     最初の引用で、ガルトゥングは暴力に対する普遍的な定義の必要性を明確に否定している[8]。それよりも重要であることは、「もっとも重要なイデオロギ―を排除しないこと(must be broad enough to include the most significant varieties)」や「具体的な行動の基礎となる(enough to serve as a basis for concrete action)」こととされている。また、2つめの引用では、特定の社会秩序を排除するために、その社会秩序が抵触するように暴力の概念を拡張することを必要としている。つまり、ガルトゥングにとって暴力(violence)の定義とは、いわゆる「目的ありき」のものだったのだ。事前に想定された「望ましくない(undesirable)」社会秩序――それは国家社会主義か、共産主義か、あるいは資本主義かもしれない――を排除し、それに抵抗するための具体的な運動の論理的根拠として活用できるように作られているということだ。いわゆる「革命理論」のひとつと言って差し支えがないだろう。ただ、かつての革命理論と異なるのは、歴史上最初の革命理論は著者の意図と関係なくそれをきっかけとして革命が勃発したのに対して、ガルトゥングや一部の扇動家たちによる革命理論は、著者の期待する革命を呼び起こすという明白な目的のためにつくられたということだ。この背景を踏まえた上で、ガルトゥングが定義した「暴力」の定義を注意深く見ていきたい。

    <ある人に対して影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼の持つ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する。7>
    <en: As a point of departure, let us say that violence is present when human beings are being influenced so that their actual somatic and mental realizations are below their potential realizations.[9]>
     非常にわかりやすく、明確な定義である。また、これを以下では「潜在的実現可能性のルール」と呼びたい。ただし、問題は「潜在的実現可能性」の具体的な程度についてである。これに対してガルトゥングは、次の頁で明確な回答を与えている。

    <もし十八世紀に人が結核で死亡したとしても、これを暴力と見なすことは困難である。なぜならば、当時結核で死亡することは避けがたいことだったからである。しかしもし、世界中のあらゆる救済手段が備わっている今日、人が結核で死亡するならば、われわれの定義によれば、そこには暴力が存在する。[10]>
    <
    このように、潜在的実現可能性のレベルとは、所与の知識と手段でもって達成可能なレベルを意味する。もし知識と手段のいずれか、あるいは両者とも、ある集団または階級により独占されている場合、あるいはそれが別の目的に使われている場合……そのシステムには暴力が存在することになる。[11]>
     ある時点の世界でもっとも恵まれている、先進的な集団の可能性の水準を所与のものとし、その集団に属していればより大きな可能性(somatic and mental realizationsを実現できたはずの人物が居た場合、それは暴力とされるのだ。しかし、この定義によるところの可能性(potential)とは、つねに主観的なものとならざるをえない。肉体的、あるいは能力的な可能性であれば、より健康であることや、より賢明であることが誰にとっても望ましいということに合意しない人は珍しいだろう。しかし、精神的な潜在的実現可能性=”mental realizations”について普遍的な基準は存在しない。共通しているのは、それが各人にとっての主観的な「幸福」であるということだけだ。ガルトゥングはこう続ける。

    <たとえば、読み書きの能力はほとんどどこでも高く評価されるのに対して、キリスト教徒であることの価値は大いに議論の余地がある。それゆえ、もし識字率のレベルが潜在的実現可能性を下回る場合には暴力が問題になるであろうが、キリスト教への改宗率については同じことはいえない。11>

     以上ガルトゥングの定義する暴力、”violence”を仔細に検討してきたが、この定義の最大の問題点は、それが個人の「妬み」や「僻み」といった劣情を肯定して留まらないことだ。現代における「客観的・先験的」なものから「主観的・事後的」なものへの「暴力(violence)の概念的膨張」を、ガルトゥングの定義は強力に推進している。なぜなら、「○○があれば(なければ)、より大きな幸福が得られたのに」という「潜在的実現可能性」の発見は、つねに事後的に、そう発見する人自身の主観によって行われ、それを客観的に否定することは困難だからである。ゆえに、その劣情を「暴力への抵抗」として正当化し権威を与えてしまうと、必然的に人は想定しうる限り最高の潜在的実現可能性を夢想し、それが達成されなかった原因を他者に帰して「暴力だ」「搾取だ」「嫌がらせだ」などと叫ぶことになる。

     理解を促すため、少しだけ話をセクハラに戻そう。出社直後の些細な会話に対して、ある女子社員が「あの男があんな事を言ってこなければ、もっと気持ちよく働けたのに」という感想を持ったとしよう。そこにガルトゥングによる「潜在的実現可能性」の概念が加わると、「男が言ったあんなこと」は彼女の”潜在的に実現可能だった幸福感”を損害(violate)したものとして、社会から排除されるべき暴力(violence)のリストの、「セクハラ」という分類に加えられる。

     しかも、幸福感を損なう精神的な暴力は、その行為者の属性と切り離して考えることが出来ない。その言葉を掛けたのが女流漫画家によって描かれている少女漫画に現れるような「イケメン」ではなく、(恐らくは彼女にとって魅力的ではない)特定の男子社員であるという変数が確定した段階で事後的に「セクハラ」であると断定される。男子社員にとってみれば、他の男子社員が日常的に女子社員と話しているようなことが、彼が口にした時に限って「セクハラ」と糾弾されるという大変な理不尽を味わうことになる。フランスの強姦罪に対する懸念と同様に、潜在的実現可能性のル――ルは行為者側(他者に対して何かを働きかける側)に対して一方的に不利なのだ。

     ガルトゥングの理論は、第三世界で貧困や疫病に苦しむ人々にとって、先進国から様々な形の援助を得るにあたって大きな武器となった。「機会的平等」という言葉はしごく一般的な概念として受け入れられるようになり、この地上に生まれた誰もが、その時点で想定される最高の可能性を実現できるべきだというガルトゥングの議論は、多くの個人にとって空気のように当然のものとなり、「不平等」「格差」「差別」といった言葉は、それを発すると同時に「解決すべき問題」であるという意味合いを持つようになった。だが、ちょうど2015年現在生起している欧州の難民問題からもわかるように、人は常によりよい生活、より幸福な生活を求めてやまない生き物だ。ガルトゥングの議論を受け入れる限り、自らの潜在的実現可能性を獲得しようとして大移動を行なう難民たちを非難することはできない。

     ようするに、「潜在的実現可能性」なるものを想定し、それが実現された状態を普遍的な権利として考え、それを実現されない状態を暴力(violence)と定義し、それに反対し潜在的実現可能性を獲得する活動を「高く評価されるべき11」とするならば――あらゆる個人の欲望が肯定され、集団、階級同士の対立は永久に止むことがない。「隣のバラは赤い」ということわざが昔から言われているように、人は、いつも他者を羨み、満足することを知らない存在だからだ。もし本当に人々の幸福、満足を願うならば、最近発売された『置かれた場所で咲きなさい』という書籍の題名ごとく、現実とは今ここにあるものでしかないことを説き、「たられば」の議論は無意味であることや、欲望はむしろ罪であることを教えなければならない。しかし、ガルトゥングが撒いた種によって、今やはあらゆる欲望が実現されて当然のものと考えられ、ドイツでは「難民が来なければより幸福な生活を営めた集団」と「ドイツにいればより幸福な生活を営めた集団」の対立が深まっている。難民たちの写真を新聞で目撃するが、彼らは上等のコ―トやジャケットを着込んでおり、その手にはスマ―トフォンと、国境を超えて利用可能な通信サ―ビスを持っている。確かにドイツに行けば「より幸福な」生活を営めたかもしれないが、現状や、ドイツほど豊かではない欧州の国家で満足することが不可能な生活水準であるとは考えにくい。

     ある意味で、ガルトゥングはこの定義によって、意地悪な言い方ではあるが「”暴力”を解消するための”平和運動”という名の階級闘争を煽動する」という目的を達しつつあるのかもしれない。しかし、幸福が絶対的なもの(xドルの所得があれば誰もが幸福を得られる)ではなく相対的・主観的なものである以上、ただ満足するということによって、深刻な飢餓や疫病に苦しんでいるという一部の集団以外は幸福を得ることができるのだ。言い換えれば、ガルトゥングの定義する「暴力」と諸国民の「幸福」は、両立することが可能なのだ。

  4. 周縁的問題と幸福への展望

     また、ガルトゥングの定義する「潜在的実現可能性のル―ル」は、諸国民の長期的な努力や発明、研究といったイノベ―ションを否定する思想でもある。たとえば、現在中華人民共和国で問題になっている公害、5は一部での地域でWHO基準の50倍を越え[12]、多くの国民の健康が危機にひんしている。もし――おそらくは間違いなく――このPM2.5を解消、あるいは緩和する科学技術が我が国に存在するとすれば、これを独占し中国に提供しないことは、定義によればあからさまな暴力が存在するということになるだろう。だが、実際にはPM2.5の問題は中国の環境への影響を考慮しない経済活動に根本的な原因があるし、それを規制しない中国政府の不作為は問題にされねばならない。植民地主義の歴史を紐解けば、より多くの暴力を指摘できるだろう。しかしその中でも最も中国にとって好都合な選択肢は、我が国に無償の技術供与を要求することだ。自国の産業を抑制するという選択肢は、最も迅速に実行可能であるにも拘らず実行されることはない。

     もしこうした要求が正当性を持つとすれば、我が国は中国に遅滞なく環境技術を提供せねばならないし、それを要求する運動こそが平和運動と呼ばれ賞讃される。だが、日本の環境技術も、明治時代以来の悲惨な公害問題の歴史と反省に立ち、多くの科学者が努力を重ね、政府もそれを惜しみなく支援し、日本国民という集団の作為によって獲得されたものだ。もしそれを、そうすることでより高い可能性を実現できる人がいるからといってほぼ無償、少なくとも我が国が合意できないような価格で譲渡しなければならないとするならば、恐らく我が国にかぎらず、多くの集団・階級が努力をして何かを得るという活動、すなわちイノベ―ションを放棄するだろう。これは、70年間の時を経て、平等に埋没し勤勉さを忘れた共産主義諸国の人々と共通するものがある。国内のあらゆる個人が最も恵まれた状態にあること――すなわち「平等」を志向した共産主義と、世界のあらゆる集団や階級が想定できる中で最高の「潜在的実現可能性」を享受できることを理想とするガルトゥングの思想には、主体の単位こそ異なるものの、根本的に共通するところがある。それゆえに、その結果起こりうる副作用も、主体こそ異なれ同じような現象が指摘できるのだ。共産主義は実現のために最悪の暴力と犠牲を必要とし、結果的に失敗に終わった。ただ、論文が執筆された1969年の時点では、ソビエト連邦は英独と同程度の経済成長率を維持していたのだ。

  5.  本論では、現在我が国で見られる「暴力」と周縁的概念の無秩序な拡大――暴力の概念的膨張に対して、ガルトゥングの定義した「潜在的実現可能性のル―ル」がもたらした作用と、そのル―ルが孕む幾つかの問題について指摘した。同時に、潜在的実現可能性が担保されない――暴力が存在する状態と個人の幸福が両立するということも述べた。ただし、これらの批判は、もしかするとガルトゥングの既に予期したところなのかもしれない。論文の別の箇所で、ガルトゥングはこうも述べている。

    <基本的命題は、意図的かつ継続的妨害がないところでは、社会システムはこれら六つの全てのメカニズムを発展させる傾向がある……あるシステムのもとでは、ランクが一番下の行為主体は潜在的可能性を実現することができなくなるだけでなく、最低限の生活条件以下の状態に置かれる。[13]>
     この箇所で、ガルトゥングが「妨害」というネガティヴな用語を用いたことは一考の価値がある。暴力を「重要なイデオロギ―」に抵触しないように定義し、社会運動や革命に利用できるように利用することは、必ずしも人々を幸福にしないし、集団・階級間の対立を固定化させ、秩序を破壊する。しかし、そのデメリットを考慮してもなお、筆者が示した解決策――すなわち「足るを知る」ことによっては解決できない極度の貧困を救済し、その深刻化を防ぐ効用があるという立論は可能だ。たが、その真意は東京から8000km以上離れたノルウェ―、首都オスロに眠っているため、容易に知ることが出来ないのが残念だ。ガルトゥングの発見した潜在的実現可能性のル―ルに代わる、より優れた貧困救済へのアプロ―チ―集団、階級間の継続的な対立を生み出さない、より穏健なアプロ――チを発見することが、我々の課題なのかもしれない。そしてそれは、双方の合意のもとで後進国に経済的利益をもたらす排出権取引といった形で、既に萌芽しつつあるように思える。本論が問題にした個人の羨望による社会不和も、類似の方法で解決できないだろうか。あるいは、暴力の概念的膨張が深刻化する以前の時代に、そういったギブ・アンド・テイク、ないしはトレ―ドオフの関係性が存在したのではないだろうか。経済学的な観点を通じて、貧困救済への新しいアプロ―チを発見することを今後の課題としたい。

 

[1] おそらくそれこそが、『構造的暴力と平和』の先頭に「暴力・平和・平和研究」が配せられた理由だろう

[2] アクトワン通信 13.セクハラについて (n.d.): n. pag. 弁護士法人アクトワン法律事務所, 1 Mar. 2014. Web. 11 Nov. 2015. <http://www.act1-legal.jp/common/pdf/actone_press/actone_press_13.pdf>.

[3] "「ウチのセクハラ」、社内報で特集 広報課の女性コンビ企画 ." 朝日新聞 [Tokyo] 9 Dec. 1989: 7. Print.

[4] "NEWSポストセブン|月額590円「痴漢冤罪保険」に申込殺到 首都圏在住者に人気│." 月額590円「痴漢冤罪保険」に申込殺到 首都圏在住者に人気│NEWSポストセブン. 週刊ポスト, 11 Nov. 2015. Web. 11 Nov. 2015. <http://www.news-postseven.com/archives/20151111_362826.html>.

[5] Yamazaki, Fumio. 47 フランスのセクハラ法 (1994): 51. 29 Feb. 1992. Kokushikan Univ.

[6] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 4. Print.

[7] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 5. Print.

[8] ただし、次の段落で「一般的用法から外れたものになるかもしれないが、まったく主観的なものであってもならない」と述べている。

[9] Galtung, Johan. “Violence, Peace, and Peace Research”. Journal of Peace Research 6.3 (1969): 167–191. Web...

[10] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 7. Print.

[11] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 8. Print.

[12] "「まるで火事」 PM2.5濃度 中国東部でWHO基準の50倍 ." 「まるで火事」 PM2.5濃度 中国東部でWHO基準の50倍 . 大紀元, 13 Nov. 2015. Web. 13 Nov. 2015. <http://www.epochtimes.jp/2015/11/24765.html>.

[13] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 27. Print.