自由恋愛社会はジェンダー・ロールを強化する

 この記事には全面的に改稿された新しい版がありますので、こちらをご参照ください。

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(以下アーカイブ)

最近考えたていたのが、なぜ高齢者はより保守的、つまり規範に対して適応的なのか、ということだった。例えば、NHKによる「父親の子育て参加と家族のあり方」という社会調査を見ても、高齢層ほど性別役割分業という代表的なジェンダー・ロールに忠実であることが伺える。

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このデータのみならず、高齢者ほど保守的である、というのは感覚的に明白な事実であると思われる。
附言しておくが、60代や50代は決して「保守的な」世代ではない。60代は安保闘争、ヒッピー、ラブアンドピースの年代である。50代は「新人類」だ。それぞれ当時、大いに大人たちの顰蹙を買い、「最近の若者は~」と言われた世代なのだ。

そんな彼らが、今や「保守的な」価値観を身につけ、古典的なジェンダー・ロールにしたがって生活している。
その背後に働いている作用とはなにか?
少しだけ考えてみたい。

供給は多様、だが需要は一様

「子曰、性相近也、習相遠也」

(人間には生まれつきの大差はないが、その後の習慣によって大きな差が生まれるものだ。)

論語』陽貨篇

人間は生まれつき、体力や性別など多くの違いがあるが、その欲望についてはじつは大差がない。生まれたばかりの赤ちゃんは、誰もが一様に同じ乳を求め、睡眠時間を求め、おむつの選好についても、大方一致している。赤ちゃんAによってよいものは、他の赤ちゃんB~Zにとってもよい。

しかし、成長していくについれて多くの外的な影響を受け、子供たちの選好は多様化していく。ランドセルを買うときは友達と同じものがよいと言っていた子が、通学カバンを買うときには人と重複することを忌み嫌うようになる。

すなわち、人々の成長とともに選好は多様化し、その結果として、人々は相互に異なった経験や思想を持つようになる。このことは、読者諸兄の多くが首肯されることだろう。
しかし、このようにして多様な個性を身につけた人々が、恋愛という人間市場に投げ出され、相互に供給し需要する関係となった途端、ある重大な問題に直面する。それは、人々の供給は多様だが、需要は一様である、という問題だ。

我々は、例えば緑色が、あるいはブナの木が世界でもっとも 美しい、といった言明にはほとんど合意できない。なぜなら、美的感覚というものはすぐれて高度な感性で、何を美とするかという観念は、個々人のこの上なく多様な経験のもとに構成されているからだ。
しかし、こと性的なことに関しては、我々の選好はかなりの割合で一致する。ある人にとって美しい異性は、他の多くの同性にとっても同じように美しい。だからこそ、AKBやジャニーズといったアイドルが存在できるし、歌舞伎町の風俗店においても、特定の娼婦が多数の人気を博することが可能になるのだ。もし性に関する選好が多様なら、美人、ブスといった言葉も意味を持たなくなるだろう。

ちなみにこの相違は、ハイエクの議論によって一部説明できる。ハイエクは、全体主義諸国でいつも、よりによって最悪の野蛮な者が指導者になったことについて、人々の意志の知的かつ高度な次元に訴えて全体の合意を得ることは困難だが、低俗で動物的な意志に訴えるなら、全体の合意を得ることは飛躍的に容易となるからだ、と説明した。(ドイツにおいては、それはユダヤ人を諸悪の根源とする言説や、連合国への復仇を訴えるナショナリズムであった)

とすれば、政治・思想のことや美学のことでは永遠に合意できない人々の中でも、こと異性のこととなれば合意が得られるという事実にも納得がいく。性愛という、人間生活の中でもとりわけ動物的な事柄において、人々の需要は限りなく一様なのだ。

アジャスト・オア・エグジット

このように多様な供給を持った人々が、一様である需要に合わせて自分を作り変えていくさまが、まさに「ジェンダー・ロール」を身につける、ということだ。

大人しくて料理が得意で母性的な、といった女性の一般的なジェンダー・ロールは、一貫して「男性にとって都合の良いように」作られてきた、とフェミニストは教えている。この言説を小生は肯定したい。ところが、女性が自由なあり方で恋愛が「できる」ようになればなるほど、これは強化されるのだ。

前提として、現在の恋愛市場は「完全市場」に近づいている。完全市場とは、需要側が選好するタイミングで、すべての供給者の情報が判明しており、いずれも同じコストでアクセス可能な市場のことだ。文明の発達によって、方言が矯正され多くの人と意思疎通が可能となり、次いで産業の効率化のために都市生活者が急増し、さらにIT革命によってインターネット、スマートフォンが普及し、誰もが以前と比して圧倒的に多数の異性を比較検討した上で選択できるようになった。

つまり、以前なら、あまり効用が高くなくても、他に選択肢がないからと需要された個人が結婚できなくなり、需要側は都市やインターネットでより効用の高い供給者(結婚相手)を探すことができるようになった。また、子供ができるうちに結婚しろという圧力が弱まったため、この競争から「タイム・リミット」が取り除かれた。

話を家電に置き換えるとわかりやすい。たとえば、家の冷蔵庫が壊れて、中の肉や野菜が腐敗する前に別の冷蔵庫を入手しなければならないとしよう。この時、1970年代の世界なら、おそらく街の系列店から、高いお金でナショナルの冷蔵庫を買うしかなかった。仮に都会や海外により安くて性能の良い冷蔵庫があったとしても、それを手に入れるためにはあまりにも長い時間と費用がかかった。

ところが、今や全国どの地域でも、ヨドバシ・ドット・コムで注文すれば翌日までには好きな冷蔵庫が手に入る。貿易も自由化され、LGのような外資の商品も全く同じ条件で入手できる。もちろん、カカクコムのような便利なサイトを使って、最も安い小売店を簡単に知ることができる。このような市場環境の変化の中で、地方の系列店は次々と店じまいを余儀なくされた。多くの供給者が市場から退出し、生き残った少数の供給者たちは、しのぎを削って商品価値を高めていった。これらは最終的には消費者の利益につながった。

今、同じことが人間に起こっているのだ。女性を供給側、男性を需要側とした時、従来なら「ブスだけど町内には他に女がいないから」「料理が下手だけど、そろそろ誰かと結婚しないと親が承知しないから」などと消極的な理由で娶られてきた層は消滅し、男も女も、自分を満足させるに足る効用をもたらす異性を、タイム・リミットを設けずに追い求めるようになった。

なら結婚なんか諦めればいいじゃないか、というのは簡単だが、話はそこまで単純ではない。マクロ的な人口減少の問題はいうまでもないが、親の圧力がなくても結婚ができないことによる非効用は存在する。簡単にいえば「リア充」が羨ましい、という問題だ。この非効用から逃れるために、何だかんだで人々は老いらくの恋人探しを継続し、ある種の承認を得ようとする。需要と供給が一致せず婚期を逃した人が増えるほど、この非効用は増大し、社会には嫉妬が渦巻き始める。

こういうわけで生涯を通じて恋愛競争は継続されるが、この場合における「競争力」は、男性にとって都合の良い「ジェンダー・ロール」への適応力と同義である。つまり、自由恋愛下における女性の選択肢は、ジェンダー・ロールに適合するか、あるいは恋愛市場を退出(結婚を諦める)するか、の二者択一となる。これは、マルクスが指摘した「資本の文明化作用」を思わせる。

女性は「結婚」から逃げられない

今まで述べたことは、すべて男性にも当てはまる。実際、女性が求めるジェンダー・ロールに合わせた自分磨きや、最悪の部類ではペニスを伸ばす薬を服用するなど、女性の選好に合わせる努力は多くの男性が行っているところである。

しかし、これだけでは年齢が高まるほど人々は保守化(ジェンダー・ロールに適応)する、またするであろう、という根拠にはならない。「多くの人が恋愛市場から退出する」という帰結を排除できていないからだ。

結論から言えば、男性であれば、恋愛市場から退出する選択肢はある。しかし、女性には難しい。なぜなら、経済力の非対称性があるからだ。

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ハフィントン・ポストの『女性の年収、低すぎ? 日本はこの30年、男女の格差が埋まっていない【データ】』から引用したグラフだが、事実として日本では、所得の男女差は大きい。単純に女性の多くが単純労働をする非熟練労働者であることが原因だが、もちろんその背景には、企業が結婚退職を見越して女性を訓練しないという統計的差別がある。

自由恋愛においても結婚した一定数の女性が結婚退職をする以上、この統計的差別は将来においても消滅しない。問題は、お金がない人ほど結婚するしかない、というシンプルな事実だ。

いうまでもなく、結婚は住居や重家電などの生活設備の共用化、合理化を意味する。また、シェアハウスと異なり分業が可能になるため、原則的には結婚すれば生活は合理化する。

男性は女性の選好に極限まで合わせるくらいなら、恋愛を諦めれば良い(草食化、という形ですでに始まっている)。しかし、女性はお金がないので結局結婚するしかないのだ。高年齢化して女性であることの価値が逓減していくなか、その価値は「男性の選好(ジェンダー・ロール)に適合する」ことでしか埋められない。また、収入の増えた男性は女性を娶らなくても生きていけるので、高年齢の恋愛市場は必然的に男性優位となる。さらに、閉経してしまえば子供は持てなくなるため、「リア充コンプレックス」は一生解決できなくなってしまう。男性にはタイム・リミットはないが、女性には依然として存在するのだ。

このように、妙齢の未婚女性には想像を絶する強烈な保守化へのインセンティブが働いていると言えよう。かくして、自由恋愛下ではジェンダー・ロールに適応した者から順に結婚してゆき、男性には退出者も現れるものの、女性は生活のために結婚する必要があるため、結局は専業主婦付き男性との競争に勝利した少数のアマゾネス以外の全員がジェンダー・ロールに適応し、結婚してゆくのだ。

注意しておきたいが、男性にも結婚へのインセンティブは常に存在する。ひとつは先述の、結婚による社会的承認の獲得である。もうひとつは、結婚を通じて最も安価に性欲を充足することである。たとえば結婚による生活の合理化に100万円の効果があると仮定すれば、例えば月イチ強で風俗に行って10万円を12回払うよりも、220万円も安く性欲が充足される(飽きる、という点さえ我慢なり克服すれば)。結婚以上にすぐれた風俗店は存在しないのだ。

所得の平等化と新たな問題

ゆえに、フェミニストがいうように女性が「自分らしく」生きるためには、男女の所得を均衡させて、この落とし穴を塞ぐ必要がある。しかしその過程には、また新たな問題が立ち現れる。

ひとつは、男女で知性の分布が異なるゆえに、純粋に頭の良い人物から教育を与えていくと、必然的に男性の方が高学歴となるからだ。このことは、この記事で説明されている。

教育によって人は知的労働が可能になり、生産性が上昇し多くの賃金を獲得できる。学歴と所得が相関するという前提で、よりよい教育をフェアに、つまりより知能の高い学生から順に分配していくならば、必然的に所得は男性の方が多くなるのだ。これを是正するためには、「秀才なのに男だから大学に行けなかった」層と「馬鹿だけど女だから大学に行けた」層を生み出してしまうことを承知のうえで、クオーター制を導入するしかない。

クオーター制の道徳的な是非は別の機会に譲るとして、問題は、クオーター制を導入した大学は、上述の層の存在故にクオーター制を導入しない大学より非効率的とならざるをえない、ということだ。将来、中東の保守的なイスラム圏が十分な資本を確保し、欧米と同じ条件で知的競争をするとなれば、クオーター制を導入している欧州の大学は長期的に敗北することは必至だ。

また、自由恋愛下でも一定数の女性は引き続き結婚し退職するため、企業側の選好としては、やはり責任ある仕事は男性に任せたい。いかに保育所イクメンを充実させても、母乳を与えるのは女性の仕事であるし、子供を産まなくても生理休暇などを必要とするため、いついかなる時でも会社のために働けるエグゼクティブとしては、やはり男性が望ましい。このため、現在より幾分か緩和されるとしても、これまたクオーター制を導入するのでなければ、企業は男性を優先して教育し、出世させる。もちろん、先述のクオーター制による非効率は企業社会においても存在するので、グローバル競争においては「保守的な」企業が市場競争に勝利することになるだろう。これを嫌うなら、世界政府が全世界の企業を監視し、クオーター制を強制するしかない。第三次世界大戦の端緒である。

恋愛市場からの退出と少子化

仮に前項の問題を解決できたとしても、それは「男女とも平等に所得を得て結婚し、子供を生むことができる」社会の到来を意味しない。到来するのはあくまで、「誰もが恋愛市場から退出できる」社会である。ゆえに、所得の男女平等が実現すれば、多くの(ジェンダー・ロールに適応するコストが結婚によって得られる効用を上回った)男女が恋愛市場から退出し、婚姻率は激減する。

日本の完結出生児数(結婚した夫婦が生涯に産む子供の数)は、減少傾向にあるものの2.0前後で推移している。すなわち、少子化の原因は婚姻率の低下に他ならない。だからこそ、女性が恋愛市場から退出できるようになってしまえば、少子化はますます進展するのだ。

そうなれば、労働力が不足した日本の産業がますます衰退することは疑う余地がない。ジェンダー・フリー政策を撤回するのでなければ、移民を大量に導入し、日本という国家を譲り渡すことになるだろう(これらの移民が「保守的」であり、再生産に長けていることは言うまでもない)。

もちろん、移民を受け入れることはせず、人口の究極的な減少、(クオーター制の非効率による)産業・学術界両面での競争力低下という代償を受け入れて、世界の二等国に転落しながらもジェンダー・フリーを実現するという選択肢は存在する。これを選択すると、非常に面白いことが起きる。

完全な恋愛市場競争と、そこからの退出を担保する男女平等社会において結婚し種を存続させるのは、男女双方の「最も競争力の高い」少数の生産者たちだ。すでに指摘したとおり、恋愛市場における競争力とはジェンダー・ロールへの適応力であるため、長期的に見ればジェンダー・ロールに適応した、つまりその時代・社会において異性に求められる容姿を生まれつき与えられ(あるいは整形手術で獲得し)、人格面でも特に自我を曲げなくても異性の選好に適合していた人々だけがその遺伝子を次世代に伝えることになる。もちろん、そうした夫婦は自分たちの生き方を子供にも教える。最終的に、最も「ジェンダー・ロール」に忠実かつ優れた容姿を持った男女だけが出産可能となる社会が到来し、人口は緩やかなペースで回復に向かうのだ。このすこぶるグロテスクな優生学の実現こそが、ジェンダー・フリー思想が人類にもたらした恩恵なのだ。

結論

このように、自由恋愛社会は2つの帰結しかもたらさない。ひとつは、歳を重ねるにつれ女性のみが結婚を必要としつつも容姿が劣化するため、ジェンダー・ロールへの服従を求められる社会だ。もう一方は、男女とも自由に恋愛ができる代わりに国家は没落し、長期的にはもっともジェンダー・ロールに忠実な男女のみが生き残る社会だ。おそらく両方とも、フェミニストたちが期待する結果ではないと思われる。

だからフェミニストたちの最大の敵は、皮肉なことに、女性解放の重要な側面である自由恋愛そのものなのだ。家父長制の世の中で、親の都合で婚姻がまとまり、下手をすれば生まれた時から結婚相手が決まっている世の中のほうが、社会的な圧力はあるものの、意欲次第ではジェンダー・ロールから外れた人間にもなれる。こっちの方が、女性はまだ「自由」なのかもしれない。