「マイノリティ」をどう扱うべきか―鉄棒から考える、平等と配慮と大浴場について―

鉄棒の時間

今日、名古屋大学高等教育センターが作成したこんなウェブサイトを読んだ。 大学教授がマイノリティへ配慮しつつ授業を行うためのハウツーが書かれている。 配慮が必要とされる理由は、マイノリティは差別されていて、常に不快感、あるいは疎外感を感じるからだ。 もちろんこうした負の感情は、感じる人が少なければ少ないほどよいだろう。 しかし考えてみてほしい。世の中には、実にたくさんのマイノリティがいるはずだ。 よく挙げられるジェンダーをはじめ、身長、体重、国籍、容姿、経済力、門地…… キリがない!*2 小学生の頃、僕は逆上がりができなかった。クラスの仲間達はそれほど練習せずにできていたから、努力云々よりも生まれ持った運動神経、体格差が大事だったんだと思う。 やがて、体育の時間で僕は「マイノリティー」となった。 仲間たちが逆上がりの回数に応じて先生にシールを貼ってもらうのを横目に、まさに上記のページにある「わたしはここにいてよいのだろうか」に似た悲しみを感じていた。 一方で、逆上がりが出来、高速回転に勤しむ級友たちは楽しそうだった。シールを一枚でも多く獲得するべく、汗を垂らしながら練習に励む者もいた。とても健全で、美しかった。 逆上がりなど不平等だ。生まれつきのDNAが悪い奴は、どうせ勝てない。親の金でスポーツ教室に通っている奴にはどうせ勝てない。その意味で、逆上がりが出来ないマイノリティたちは差別されていると云ってもよいだろう―けしからん。 だが、一部のマイノリティを悲しませるからといって、マジョリティの健康な喜びを取り上げてもよいのだろうか?

喜びは増えていない

結論から言うと、僕はそうは思わない。 その悲しみを感じるのは誰の責任でもないからだ。また、ある点でマイノリティとなる人物も、別の面ではマジョリティに属している可能性が大きいからだ。 鉄棒が出来ないマイノリティたちは、体育の時間の間中、ずっと居たまれない思いをしている。 でも、運動神経のいいマジョリティたちが彼らの運動神経を吸い取ったわけではない。自然の差配によって、最初からそうなっていたわけだ。 「お前らのせいで俺らは居場所がない!!鉄棒をやめろ!!」と詰め寄ってみたところで、マジョリティは困惑するだけだろう。 彼らはきっとこう言う。 「あ……ごめん。悪気はなかったんだ。僕らはただ、鉄棒の腕を競い合うのが楽しくて……君らをばかにするためにやっていたわけじゃ、決してないんだ。許してくれ。」 そして、両者ともにやりきれない気持ちだけが残る。 マイノリティにしてみれば、不愉快な鉄棒という競技をやめさせたものの、みんなで楽しむマジョリティの仲間になれたわけではないから、ちっとも楽しくはない。羨ましさが消えただけだ。 マジョリティにしてみれば、仲良くやっていた鉄棒を取り上げられて、またひとつ毎日の楽しみが減った格好だ。別に見せびらかしたり、仲間はずれにした覚えはないのに。 こうして見渡してみると、最初存在していたマジョリティ―マイノリティ間の「楽しみ」の格差は再配分されて平等になったわけではない、ということに気がつく。 マジョリティが持っていた楽しさがゼロになって、どちらも不幸になるという形で平等になったのだ。

君だってマジョリティだ!

そうだ。鉄棒が出来ないマイノリティたちも、鉄棒以外のことなら出来るかもしれない。 算数の時間。難解な鶴亀算の問題に頭を抱える級友たちをよそに、「元・マイノリティ」君は元気よく手を上げていた。件のページにも出てくるが、マイノリティとは数の多寡の問題ではない。”本人の責任ではない事情によって、さまざまな不利益を被っている、あるいは被りうる”人々を指すのだ。 「元・マジョリティ」君は、親の学歴が低いせいか、スポーツはできても教養のある家庭に育ってはいなかった。うむむ、分数のあたりからわからない。先ほどの時間とは打って変わって、今度は彼が「わたしはここにいてよいのだろうか」的な思いを感じていた。 全ての能力、尺度においてマイノリティに該当してしまう人物は、ほぼいないはずだ。ある共同体でマイノリティであっても、別の共同体ではそれがマジョリティとなることもある。今マイノリティであっても、オジサンになる頃にはそれがマジョリティになってしまうかもしれない。要は、「お互いさま」なのだ。 自分たちマイノリティの苦しみを理由に誰かの楽しみをやめさせても、その分の楽しみが手に入るわけではい。それよりは、各々が「マジョリティ」となれる世界に飛び込んでみたほうが、より多くの人が幸せになれるのではないか。 こういう理由で、僕は「マジョリティ」「マイノリティ」という分類をセンスがあるとは思っていないし、「~への配慮」という形で何かを自粛、禁止していくのを良いことだとは思わない。 附言しておくが、もちろん、たんなる「悪意」は別である。いちいち人様に「ブス」だとか、「バカ」だとか言ってみたり、同志社大のサークルみたいに「ホモ試し」なんてのを企画して、誰かをダシにすることで喜びを得てはダメだ。僕は警察官ではないのでどうしてもやるというなら止めないが、きっと同じような悪意で仕返しされるだろう。

「配慮」の代償

ICUの新寮には、大浴場がない。 その理由は「大浴場があることで、大浴場に入れないセクシュアル・マイノリティの人たちが仲間はずれになって、悲しんでしまうから。」だとされている。*1 でも、旧寮に住んでいる僕は、大浴場が人間関係に果たす役割をよく知っている。気難しい先輩とも気軽に話せる唯一の場所だ。一緒に入ろうぜ、と気軽に誘い合って、今日一日の出来事を話しながら疲れを取る。決して一人用のシャワーで置き換えられるものではない。非常に沢山のセクシュアル・マジョリティたちのこうした喜びを、奪っていいのだろうか? いや、もう奪われてしまった。 今、僕が住んでいる寮が壊されたあとに建てられる寮、すなわち新新二寮の建設の話し合いに参加する機会を頂いている。特に口止めされているわけではないが遠慮しつつ、そのことについて少し語りたい。 ジェンダーへの配慮、という点についてはやはり議論が紛糾していて、やっぱりICUの特徴なのか、とりわけセクシュアル・マイノリティに配慮したいという人が多いようだ。しかし僕としては、世の中に無数にあるマイノリティ全部に平等に配慮することは無理だとわかっているし、それが誰のせいでもないということも知っている。だから新寮のようにまたしても大浴場は作らないとか、何かセクシュアル・マイノリティ向けの設備を作り、それを寮生全員に負担させるという考えには反対だ。けれどもせっかく何かを主張しても、都合の悪い点は無視されてしまったり、秘密主義で既定事実化を押し通そうとする人がいたりして、とても不安な状態だ。 僕も容姿には恵まれない方だから、そういうことではいつでもマイノリティとして不利益を受けてきたし、ジャニーズのようなそれが売りのお仕事は一生出来そうにない。残念だ。セクシュアル・マイノリティの人達も、僕らのやっている一般的な寮生活がすごく楽しそうで、羨ましくて、自分たちだけ参加できないのは非常に不愉快かもしれない。その気持ちはわかる。 でも忘れないでほしい。それは決して君自身を含む誰かのせいではないし、それに今もきっとどこかで誰かが、君のことをとても羨ましい、と思っているんだ。

Summary
    自分が羨ましいと感じるからといって、人の楽しみを取り上げる権利はない。そんなことをしても楽しみの総量が増えることはない。むしろ、別のところに入手できる楽しみを探すべきではないか。また、あなたも誰かには手に入れられない楽しみを享受しており、無自覚のうちに羨望の的となっている可能性は大いにあるはずだ。

*1 平成26年9月14日 追記 この件についての追加の情報はこちらの記事を御覧ください。 *2 名古屋大学によれば、オーストラリアのメルボルンにあるディーキン(Deakin)大学では、人種、性別、信仰、年齢による差別から、妊娠、性的アイデンティティ、両親の社会的地位、C型肝炎にいたるまで、かなり多数の「マイノリティ」が定義されている。そして、彼らはみな「いついかなるときでも尊敬をもって公平に扱われる権利を有」する。(リンク)