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自民党憲法改正草案と憲法改正国民投票法の問題点

GES019 5th January, 2015

自民党憲法改正草案と憲法改正国民投票法の問題点 ―安全保障と自由権保障の観点から―

2014年12月の衆議院選挙では、下馬評どおり自公政権の与党が過半数を獲得し、野党勢力は共産が躍進した点を除いては特に代わり映えのしない結果となった。民主党は「失政」のホトボリが冷めたのか、野合した「次世代の党」の議席がスライドする形で野党第一党の座を奪回した。ともかく、2012年11月から4年であった自民党主導の衆議院が単純にあと4年、すなわち2016年12月までの任期を獲得したことの意義は大きい。なぜなら、安倍政権がかねてから掲げている「日本を取り戻す」というスローガンの中核をなす「戦後レジームからの脱却」、つまり憲法改正のためにどうしても必要な「時間」を確保することに成功したからだ。そもそも安倍政権は、第一次政権下の2007年に国民投票法を成立させている。同法の先には当然憲法改正が想定されていたわけで、今次の安倍政権下でそれが実現される可能性は極めて高いといえる。であれば、その有力なたたき台となる自民党公式の憲法草案(2012)を吟味することは非常に有意義といえよう。

本稿では、まず日本を含む国家にとって絶対必須となる2つの要件を列挙し、その要件に自民党憲法と現行憲法を対照し、解決すべき問題を明らかにする。むろん、「理想の国家」を語るにあたっては―国家は個人の集合体であるから―「善き生」といった哲学的価値についても勿論検討せねばならないが、筆者は他者の生における幸福について客観的に測量し、定量化、比較することには否定的な立場を取る。したがって、「平和であれば誰もが幸福」といったドグマには賛成しない。ある事象、ないしは状態が必ず「幸福」を生み出すという関係はありえない。また、個人の欲求が満たされれば必ず幸福になるという主義にも与さない。この筆者の考え方に関する説明は別の機会を待たねばならないが、とにかく、その代わりに筆者が価値とするのは、「自由」である。この「自由」とは、換言すれば「選択」である。つまり、世間には戦争に参加することに生き甲斐を感じてイスラム国に参加する者も居れば、誰もが舌鼓を打つ料理を追求することに生き甲斐を感じる者も居る。ある状態が普遍的な幸福であると断じることができないので、なにを幸福として生きるかは個々人に委ねようという発想である。

したがって、本稿においては「善き生」とは個々人によって異なるものであり、国家は個々人がそれを追求し、実現する場所であると考える。その場所であるところの国家を存在、存続せしめるために憲法が果たしうる役割を2つの憲法を検討しながら指摘したい。

理想の国家

前段に「国家は個々人がそれ(善き生)を追求し、実現する場所である」と書いたが、ではどのような状態の国家において個人は善き生を追求することができ、どのような状態ではそれが不可能になるのだろうか。これは筆者の想像のみならず、実際の歴史を振り返って考えることが可能だ。さっそく、本邦の歴史を振り返って考えてみたい。

1941年、既に始まっていた日支事変に加えて、アメリカ合衆国へ宣戦を布告したために本邦は戦争状態に入った。緒戦こそ勝利を重ねたものの、1945年の敗戦に近づくにつれて国家は逼迫し、男子は兵役、女子は労働に駆り出されたことは広く知られている。1944年には外地である日本領朝鮮においても徴用が開始された。こういった状態の国家で個人が「善き生」を追求することは不可能といえよう。国民に数多くの義務が課せられ、それに時間を費やさねばならぬ状態では個人を生きる事はできない。

そして戦争は終わったが、本邦は国富の4分の1を失い、極貧の時代が訪れた。この時代においても、「善き生の追求」は可能にならなかった。なぜなら、家族を養うためにも日銭を求めて労働に従事せねばならず、「義務のために時間がない」という点では戦中と何ら変わらなかったからである。個人の自己実現を不可能にするという点において、戦争と貧困は同じ役割を果たすといってよい。結局、大衆にとって自己実現の追求が可能になったのは、朝鮮戦争、オリンピックと高度経済成長を果たし、ごく少ない労働時間で「食糧と屋根」が手に入るようになってからであった。以上のことから、個々人の自己実現を最大限可能にする「理想の国家」を建設するためには、国民が時間的拘束から自由であることが必要であり、そのためには兵役と強制労働とを可能な限り取り除かねばならない、ということができるだろう。

外側と内側

本邦の歴史を振り返ったことで、戦争における敗勢が「理想の国家」を遠ざけるという点については理解して頂けたと思う。「敗勢」と加えたのは、当時勝勢にあったアメリカ合衆国は、朝鮮戦争時の日本のような好景気に見まわれ、欧州諸国への借款によってこんにちの発展の礎を築いたからである。「理想の国家」を遠ざけるものを「悪」と呼ぶなら、戦争が悪というよりも、敗北こそが悪なのである。とにかく、これら他の国家の侵略によって富や生命を奪われる「悪」のことを「外悪」と呼びたい。というのも、「外悪」に対する備えが十分であり、なんらの兵役や強制労働が必要とされない場合でも、「内悪」によって同じような状態が発生することがあるからだ。

「内悪」というのは、例を挙げれば奴隷制のように、誰が攻めてこなくても、自国の権力者が暴力装置を所有し、極小数の権力者の利益のために、大衆がまるで戦時徴用のように働かされる状態を指す。それは歴史的には直接的な暴力によって、現在では課税と警察権力によって実現されるようになった。この「内悪」についても、結果として「外悪」と同じ結果をもたらすので、断然排除しなければならない。

憲法はいかに「悪」を排除しうるか

以上の議論を踏まえると、これから本稿が考察するのは、自民党憲法と現行憲法が、いかに以上2つの「悪」を排除しているか、また、する力があるか、ということになる。さっそく、「外悪」について見ていきたい。

「外悪」というのは、他国からの侵略であるから、ここでは憲法が国家を守りうるか否かが問題になるといえよう。この悪を遠ざけることについて、自民党憲法は大変有効であるといえる。具体的には、§9(第9条)の理念的規定、「戦争の放棄」はそのまま保存しつつも、国軍としての「国防軍」、「自衛権」の存在を宣言し、その具体的な構造についても規定している。統帥権内閣総理大臣に所在すると2回にわたって(§9、§72-3)規定し、揺らぐことのない基盤を構築する姿勢が伺える。また、§70-2においては内閣総理大臣が欠けた場合の権力継承を明確化しており、実際に戦争が発生した場合を強く想定した法案であるといえよう。現行憲法下で戦争が発生した場合に混乱が生じかねない箇所を丁寧に潰しており、安全保障の充実に寄与する規定であることは間違いない。先の大戦が本邦にもたらした被害を鑑みれば、これらの規定は素直に歓迎するべきであろう。

集団的自衛権を明確に認めている点についても評価できる。先に述べたように、「貧困」は「戦争」と同じように「悪」を招く。したがって、国際化した経済の中で活動する自国企業の権益を守るために国軍が活動することは今や不可欠だ。

その他にも、公務員の選挙権を「日本国籍を有するもの」と明確に限定した。これも、外国勢力の浸透に対する防禦を強化する効果がある。そして、§98の緊急事態宣言規定も見逃せない。緊急事態宣言下において内閣総理大臣に絶大な権限を与えているため「独裁制への第一歩である」と左派の攻撃にさらされることがおおい規定であるが、実際には国会の承認を厳格に要求されており、この規定を利用して独裁政権を建設することは難しいだろう。

以上のことから、自民党憲法は現行憲法前文にみられる性善説を真っ向から否定し、現実的な認識に則した、国民にとって有為改正案であると言えるだろう。

いっぽう、「内悪」については現行憲法に分がある。§1や§5によって天皇は「元首」とされ、国事行為への制限が一部取り払われている。このことは摂政制という形をとった独裁制への道を開くだろう。また、§14の改正によって、栄転に特権を伴うことが可能となる。§20にも、「宗教団体への特権付与」と「宗教団体による政治権力行使」の両方を禁止した現行憲法に対して、自民党憲法では「宗教団体への特権付与」しか禁止していない。おそらく公明党を配慮した記述であろうが、「少数の特権階級が法律や暴力を背景に多数から搾取をする」という「内悪」の本質を顧みれば、これらの改正に対して全面的に賛成することはできない。

三権分立の枠組みに対しても、小規模であるが重大な変更が散りばめられている。内閣総理大臣の解散権が§6-4などで明記されたことにより、行政府の立法府に対する優位が明確になった。司法府に対しては現行憲法下でも裁判官、最高裁判所裁判官の任命権を保持しているため優位であるが、§79-2において最高裁判所裁判官国民審査が現行の十年毎に国民審査の俎上に乗せられる規定が自民党憲法では「法律の定めるところにより」と立法府アウトソーシングされる形となり、形骸化が心配される。さらに内閣が任命するところの最高裁判所裁判官たちが定める最高裁判所規則について、現行憲法では検察官や裁判所職員が従うものとされていたが、自民党憲法では「弁護士や裁判に関わるもの」もその拘束を受けることとなる。全体的に見て、行政府、すなわち内閣を大幅に強化するものであることは疑う余地がないだろう。

内閣が国民の選挙によって選ばれた善良なものであるとの前提に立つなら、行政権の強化もまた善かもしれない。しかし、ひとたび強大な権力を握ってしまうと、それを私利私欲のために使ってしまいたくなる人間の悲しい性質は、これまでに何度も証明されてきたところのものである。安倍政権とてこの例外ではない。

以上の理由から、自民党憲法は「外悪」を排除することに対して非常に効果的であるが、一方で「内悪」を大幅に増進してしまう危険があるものだと結論づけたい。

提案と総括

総力戦は国の全資源を動員するものであるため、行政府には大幅な指導力が必要とされる。歴史においても、本邦では国家総動員法、ドイツでは全権委任法が制定された。戦争における敗北は「外悪」を生み出すため、戦争に勝利するために権力が全てを掌握することは認めざるを得ないだろう。しかし、逆に言えば権力が全てを掌握することが必要となるのは戦時に限られるのであって、平時においてその必要は認められない。したがって、自民党憲法の行政主導的な諸規定は、むしろ§98に含まれるべきであり、非常事態宣言時のみに限定されるべきであろう。また、こうした強大な権力を国家に与えるなら、その指導者は限りなく民主的な方法で選挙される必要がある。よって、もし自民党憲法が施行されるなら、首相公選制、あるいは大統領制への以降も同時に遂行されてしかるべきである。百歩譲って間接民主制のままなら、民意を正確に反映するために、完全比例代表制を採用しなければ筋が通らない。

自民党憲法はもちろん完全ではないが、現行憲法もまた完全ではない。いかなる憲法規定が「悪」を取り除けるかは情勢によって変化するものなので、改正が必要であること自体は否定出来ない。しかし、憲法には理想の国家像を提示する役割もある。アメリカの一強体制が崩壊し、経済の国際化が進む今、『恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』現行憲法の夢見た世界は遠ざかり、その代わり各国が国境を超えて利潤を奪い合う弱肉強食の世界が出現している。現行憲法の理想は間違いなく美しいが、現実に即しない理想は破滅を招くのみだ。我々は理想を持つからこそ、憲法改正によって本邦の存立を断乎確保し、いつか我々の子孫が理想の世界を築く時まで、その存在を担保せねばならない。