組織の論理―高知西高校から見る教師の行動原理

この記事は、2014年7月26日(土)に執筆したものを再掲載したものです。
わずかに文法上の修正を加えています。

久しぶりに、高校時代の話をしたい。
小生が卒業した高知西高校は、県下ではいちおう『進学校』として有名で、なるほど高知大学への合格者を2桁は出していた。
高知大学の偏差値が云々と云う理由で馬鹿にしてはいけない。本県を支配している県庁、銀行、新聞社・・・これらはみんな、高知大学出身者が占めているのだから、県内では高知大を出れば「知識階級」なのだ。そんな知識階級をいちおう毎年輩出する高校なので、偏差値にしてみれば50前後であっても「進学校」といわれている。

進学校」がなぜ善いか

進学校、というのを肯定的に解釈すれば、先生たちの面倒見が良く、勉強を熱心に指導してくれる、ということになるだろう。

「高知大に行く人が多い進学校だ」⇒「いい学校だ」
という単純な過程ではなく、

「高知大に行く人が多い進学校だ」⇒「先生が熱心に指導してくれるということだ」⇒「生徒への愛がある」⇒「いい学校だ」
という論理的な過程を経て「進学校」は賛美されるのである。大学への高い進学率は教師による指導の結果であり、熱心な指導は生徒への関心、愛を意味するのだ。
そう理解するなら、いわゆる進学校を親が薦めるのは当然である。小生の親もその一人で、結果当初志望していた近所の東高校を諦めて受験した。

しかし愛はなかった

こうして西高校に入学したが、上述の方法で期待される「愛」はほとんど見つけられなかった。
5月くらいの話である。
小生は中学生の頃から「(自称)進学校」にいたため、模試というものはもう何度も受験していた。
もちろん面白くないので国語以外は可能な限り寝て時間をつぶすのだが、高校生にもなるとそれが夜七時を過ぎるようなものに変化してゆき、幼少の頃から暇さえあれば喋ったり、何かの文字を拾ったりする習性が強かった小生はとてもこの無為と静寂に耐えられず、既にアレルギーを発症していた。
西高校三年次では毎月模試をやるとのことなので、4月のは受験したが、5月以降はもう無理ですと伝えると、放課後担任に呼び出され、受験してもらわないと困る、と言われた。
その理由は、「みんなそうすることになっているから」であった。

あくまで「組織」のため

ここで注目するべきなのは、その理由は「模試を受けた方が君のためだから」ではなく、「そういうことに決まっているから」―しかもそれはその教師が考えて決めたのではなく、お偉いさんがそう決めたから―であるということだ。
生徒個々人の将来、幸福といったものにはあまり関心が無く、「組織の論理をいかに適用し管理するか」、という官僚的、サラリーマン的な本音が、こういう例外的な事態の時に、真っ先に出てきてしまった。
また、センター試験を小生は高認試験の合格を根拠に個人申請したが、このときも同じ理由でかなりの反対に遭った。
少なくとも高知西高校については、教育者としての情熱に満ちていて、生徒に関心を持っている先生が沢山居て・・・ということはない。(もちろん一部居るが)
生徒の学力に熱心になるのはあくまで「上からそう命令されているから」であり、自発的、道徳的な動機は存在しない。

いつも思うのだが、こういう教師たちは大学で何を勉強してきたんだろう・・・

組織の論理と無責任の論理

全体主義、組織の論理は、あることが共同体の全員にとって例外なく善であるに違いない、という決めつけから発生する。
しかし、往々にして例外は発生する。実際、同窓の友人の一人は、学校の言うことを信じて勉強に心血を捧げたが、結局受験したすべての大学に(!)不合格となってしまった。結局浪人もせずに絶望の日々を送っている。
こういう場合、これまで散々生徒たちに命令してきた「学校」は、責任をとってくれるだろうか?
民間企業の世界では、執行部の判断ミスで業績が悪化した場合、株主に対して責任をとる形で辞任する、ということは珍しくない。
しかし、「我々の学習指導が間違っていたために、たくさんの生徒たちを不合格に追いやってしまいました。申し訳ない。」といって辞めていった教育委員会や校長を、小生は見たことがない。
合格すれば学校のおかげ、不合格なら自分のせい、という倒錯した論理を、疑う人も少ないのが現実だ。

自主・自決こそが必要

以上のことを鑑みれば、教師も責任さえ取らずに「教育」の美名を振り回ながら、考えもなしに全部の生徒を同じ方向に指導するようなことはしてはならない。
また、生徒の方も結局のところ誰も責任を取ってくれないということを自覚して、より主体的に行動を選択するべきではないだろうか。
そもそも、高校に行かなくてはまともに社会生活ができない社会自体が問題という思いがこみ上げてくるが、それはまた別の機会に考えたい。

卒業間際、国際基督教大学という、学力的にもそれなりの評価を得ている大学に合格したとき、小生は世話になった先生たちに報告をして回った。
小生のことを、部活動や英検や模擬裁判なんかで、誰に命令されるともなく世話を焼いてくれた先生たちは、おそらく小生の将来を祝して、讃辞を贈ってくれた。
しかし、まあ担任の体育教師は仕方がないとはいえ、学年主任の音楽教師に報告すると、「知っている」とにこやかに頷くのみなので、「ご感想は」と食い下がってみた。
彼は少しだけ考えてから、「それなら首都大学東京も受けておけばよかったのに。」と言った。
なるほど、偏差値的には同等以下である。でもそれは、首都大学も受かっておけば小生にとってよかったということではなく、学校として「国公立大学合格者数」が増えた方がよかった、という意味なのではなかろうか。
彼の本心を伺い知ることは出来ないが、その一言は今でも忘れられない高校教師への失望の象徴として、深く記憶に刻まれている。

 

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