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SGH(スーパーグローバルハイスクール)と高知西高校

この記事は2014年3月29日(土)のものを再掲載したものです。
わずかに文法上の修正を加えています。

 

さて、我が母校高知西高校だが、今度のスーパーグローバルハイスクール事業に応募して、見事落選していたようだ。
今日はその原因を分析してみたい。

そもそもスーパーグローバルハイスクールとは何か?簡単にまとめると、「英語が使えることを前提に、自分の意見を発信できる人材」を育成する高校に、5年間の間毎年2,900万円を助成するよ、という事業である。

全高校の4.8%にあたる246校(国立10校,公立117校,私立119校)の応募があり、同1.09%にあたる56校(国立4校,公立34校,私立18校)が最終的に指定された。

ここに高知西高校も応募していたのである。

たしかに、英語教育に力を入れているよ感はあった。学校のウェブサイトは(一応)英語対応だ。
一学年に一クラス「英語科」があり、英語教師が担任になり、英語の授業をたくさんやっていた。留学生も何度か来た。
英語ディベート選手権にも出場した(勝てなかったらしいが)。
高知南高校にも英語科的なものはあるらしいが、西高校には県としては一番力を入れているらしい。さっすがあ!

だがSGHの要件には不十分だったらしい。地域性のバランスも考慮しての選定だったが、四国からは二校しか指定されなかった。高知県には48校、四国全体には201校(全国の3.9%)の高校がある。56校中2校は3.5%にあたるから、数としては妥当かもしれないが、残念きわまる。

ではそろそろ、原因の考察に入りたい。

1.自分の意見をもっている人がいない

西高校には、自分の意見を持っている人間が少ない。
校則の意義について教師陣に疑問をぶつけたことがある。そのとき、どの教師も「学校としては~」という言葉を好んで使っていた。
なぜ「私としては~」「校長が~」と言えないのか?
もし「校長が」と言えば、校長にクレームを言うこともできるだろう。しかし、「学校が」としておけば、学校さんなんて人はいないのだから、
誰も矢面に立たずに済むし、万一問題が起こっても、責任を逃れることが出来る。
彼らが無責任と言うよりも、実際、そもそも校則にしても授業内容にしても、お偉いさんがいつの間にか決めていたもので、今に至るまで教師はサラリーマンなのだ。
ということでまず、教師は自分の意見を持っていない。
(でも、面白い先生は何人かはいるんですよ。西高に入ったら探してみてください。そういう先生と会えるかどうかで、高校生活の有意義度が100倍は変わりますよ。)

では生徒の方はいかがだろう。残念ながら、生徒も似たような人間がそろっている。簡単に言えば、権威主義だ。
校則には何でも従うべきか、という事柄について、ある同級生と議論をしたことがある。どちらが正しいかはわからないが、一つだけ言えることがある。
小生は自分の思索から発生した意見を主張したが、彼は「学校さん」の拡声器になっていたのだ。自分の考えはとうとう出なかった。
その彼は思うに結構多くの同級生から声望を集めていたから、まあだいたいあんなもんだと考えて差し支えなかろう。
他には、生徒会選挙も信任投票だし(つまり、多様な思想がない)、模擬裁判選手権の時も「弁護士のセンセイの言うことだから正しい!」という人たちが多くて、大変つまらない思いをした。
そういうことだから、生徒の方にも自分の意見がない人が多いと思われる。

2.エネルギーがない

高知のある中学校で、三年生を教えていた先生にお話を伺ったことがある。
その人物によると、西高校には「おりこうさん」の子がいくらしい。活発な人物は小津に、ガリ勉は追手前に行くが、どちらでもないがある程度の成績がある、悪く言えば「凡庸な」人間が行くのが西高校らしい。
もちろん、うるさい奴が正義だなんて言いたいわけではない。でも、「中途半端さ」は改善されるべき問題だ。なぜなら、そういう「ふらふらした」人物は、何事も人任せでその場しのぎ、明確な目標もないので、結局のところ自分の意見は持てず、自分の生き方もできないのだ。
だから進学校とは言われるが、それは教師陣が意識が低い生徒たちを(学校さんのために)精一杯煽り、牽引した結果であり、進学校であること以外に学校としての特徴はあまりないのだ。
特徴がないと言うことは、その時点で何かの下位互換ということだ。
使いやすい人間だとは思うが、国際人にふさわしい姿ではない。

3.「英語精神」がない

県下最大の英語科があるのは先述の通りだが、じゃあ英語力がびっくりするほど高いのか、というと、そうではない。
確かに英語は出来る。アタマいい。でも、結局のところ最終目標は「センター試験突破」にすぎないのだ。
この態度は、ちょうど短期留学に出て行く日本人学生に似ている。彼らは、オージーやらニュージーやらにわたり、「色々な経験」を積みたいとはいうが、結局のところは日本に帰ってくるつもりであり、心持ちは遊び半分であることが少なくない。
英語科もそうだ。英語に「触れ」はするが、「浸かろう」とはしない。高校生のための文化講演会とやらで偉い先生が来ても、留学生が交互に来てフレンド校なんてのを作っても、英語ディベート選手権に出ても、結局は英語の世界で身を立てようとは考えない。

その文化講演会ではマーギー・プロイス氏という女流歴史作家の方が、土佐のジョン万次郎という人物を題材にした本を書いた縁でおいでになった。小生はその後の座談会にも出席させていただいて詳しいお話を伺ったが、アメリカに渡り、必死に英語を学び、一度は米国に根を下ろしたジョン万次郎と英語科とは、まさに対照的だ。
英語を武器に、グローバル社会で勝負していくぞ、という気概が、完全に、ない。Nothingだ。

三年生になれば、センター試験経由国公立大学という人生の「安全牌」に、誰もが帰ってくる。最初からそのつもりだ。英語は観光(Sightseeing)であり、娯楽(Entertainment)でしかない。学校さんのほうでは結構前から「グローバル人材の育成」というあり来たりな目標を掲げてはいるが、本来の「グローバル人材」はただの語学力ではなく、英語を土俵に勝負するという「気概」も持ち合わせているということは言うまでもないだろう。
ああ、校訓なら、もう一つあった。「Hard Spirit(貫徹精神)」なるものだ。英語教育の拡充云々よりも、こちらに力を入れる時が来ているのではないか。

英語職員室の前に並べられていたいくつかの英字新聞。小生はしばしば読んでいたが、結局自分以外の生徒が読んでいるのを見たことも、そういう話を聞いたこともない。
やれといわれたことしかやらない、意欲のない「おりこうさん」たちの姿がこのことからも覗える。教育委員会その他のエラい人は、そろそろ「ハコモノ型」(環境整備投資型)の教育行政をやめるときだ。大事なのは、それを使う人間の精神だ。

 

今回は、以上のような西高校の非グローバルぶりを中央官僚に見抜かれたために、選に漏れたのだ、と考えている。
2900万円×5という"ニンジン"は惜しかったが、「こうちけんのかんがえたすばらしいえいごきょういく」を客観的に評価してもらえる機会があったことは喜ぶべきだ。脱・井の中の蛙、次のSGH選定に向けて、新しい国際人教育の姿を描きたい。

参考文献:

平成26年度スーパーグローバルハイスクールの指定について(平成26年3月28日)
スーパーグローバルハイスクール指定校一覧
グローバル化時代の人材育成を考える
初等中等教育段階におけるグローバル人材の育成
全国都道府県別高等学校数ランキング
すべて平成26年3月29日(土)閲覧