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自由恋愛主義はジェンダー・ロールを強化する(改)―多様な供給と一様な需要

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高齢者層ほどジェンダー・ロールをはじめとする伝統的価値観に親和的であり、若者ほどそうではない。この考えはよく普及している割には、その原因を問われる機会に乏しい。たしかに、30年ほど前の日本において高齢者・年配者と言えば「戦前生まれ」「昭和一桁生まれ」の世代であり、教育制度からして戦後のそれとは異なっていたため、年齢と伝統的価値観への親和性が比例する原因を検証する必要は無用に思われたかも知れない。
しかし、現代において高齢者といえば、それは団塊の世代か、それ以降に生まれた世代を意味する。現代と同じような平等主義・民主主義教育を受け、新字体に親しんで育った世代だ。よく知られているように、団塊世代といえば安保闘争、ヒッピーの世代である。これは当時の(戦前世代の)大人たちの顰蹙を買っていたし、団塊世代に続く50年代世代は既存の価値観・常識が通用しない「新人類」と揶揄されている。
多くの社会学者やフェミニストが口々に「保守的」であり、頑迷であると批判する高齢者層も、若かりし頃は「保守的な」大人たちから諫められ、窘められながら生きていた革新的な世代であったのだ。

それゆえ、我々は本来「革新的な」世代であったはずの団塊・新人類世代が、今や「保守的な」世代へと姿を変えた理由について、改めて説明を試みなければならない。加齢と保守化についてはたしかに人類の一般的な相関関係が見られるかも知れないが、ジャン=ポール・サルトルは終生「保守化」することを得なかった。加齢が必ずしも保守化を招くとは限らない。たとえば、哲学者の内田樹は最近のエッセイにおいてこう述べている。

……経済活動は限度なく加速化してきた。そしていま人々はそれに疲れ始めてきた。しつこいようだが、ことの良し悪しを言っているのではない。疲れたのに良いも悪いもない。そして、「ちょっと足を止めて、一息つかせて欲しい」という気分が全世界的に蔓延してきた。

私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsのデモに参加したときである。国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。
不思議な光景だと思った。
私が知っている戦後の政治文化では、つねに若者が「世の中を一刻も早く、根源的に変えなければいけない」と主張し、老人たちが「そう急ぐな」とたしなめるという対立図式が繰り返されていた。だが、2015年夏の国会では、年老いた政治家たちが「統治の仕組みを一刻も早く、根源的に変えねばならぬ」と金切り声を上げ、若者たちが「もうしばらくはこのままでいいじゃないですか」と変化を押しとどめていた
構図が逆転したのである。

日本はこれからどこへ行くのか (内田樹の研究室)

 

こうした観察を踏まえて、本稿では「ジェンダー・ロール」に注目し、ある世代が加齢とともに保守化するという場合に、その背後に作用している因果と条件について明らかにしていきたい。

供給は多様、だが需要は一様

「子曰、性相近也、習相遠也」
(人間には生まれつきの大差はないが、その後の習慣によって大きな差が生まれるものだ。)
論語』陽貨篇

人間は生まれつき、体力や性別など多くの違いがあるが、その欲望については実は大差がない。生まれたばかりの赤ちゃんは、誰もが一様に同じ乳を求め、睡眠時間を求め、おむつの選好についても、大方一致している。赤ちゃんAによって好ましいものは、他の赤ちゃんB~Zにとっても好ましい。大衆消費社会が成立する所以である。
しかし、成長していくについれて多くの外的な影響を受け、子供たちの選好は多様化していく。ランドセルを買うときは友達と同じものがよいと言っていた子が、通学カバンを買うときには人と重複することを忌み嫌うようになる。

すなわち、人々の成長とともに選好は多様化し、その結果として、人々は相互に異なった経験や思想を持つようになる。このことは、読者諸兄の多くが首肯されることだろう。
しかし、このようにして多様な個性を身につけた人々が、恋愛という人間市場に投げ出され、相互に供給し需要する関係となった途端、ある重大な問題に直面する。それは、人間についての人々の供給は多様だが、需要は一様であるという問題だ。

我々は、例えば緑色が、あるいはブナの木が世界でもっとも 美しい、といった言明にはほとんど合意できない。なぜなら、美的感覚というものはいわば魂の個性であり、何を美とするかという観念は、個々人の多様な経験のもとに構築されているからだ。
しかし、こと性的なことに関しては、我々の選好はかなりの割合で一致する。ある人にとって美しい異性は、他の多くの同性にとっても同じように美しい。だからこそ、AKBやジャニーズといったアイドルが存在できるし、歌舞伎町の風俗店においても、特定の娼婦が多数の男を引きつけることが可能になるのだ。もし性的なものに関する選好が多様であるなら、人はもはや美人である、ブスであるといった言葉を使わなくなっているだろう。

この断絶は、ハイエクの議論によって一部説明できる。ハイエクは、全体主義諸国において常に最悪の野蛮な者が指導者に選ばれた理由について、「人々の意志の知的かつ高度な次元に訴えて全体の合意を得ることは困難だが、低俗で動物的な意志に訴えるなら全体の合意を得ることは飛躍的に容易となるからだ」と説明した。それはドイツにおいてはユダヤ人を諸悪の根源とする「背後の一突き」に代表される言説であり、あるいは連合国への復仇を訴えるナショナリズムでもあった。

とすれば、政治・思想のことや美学、善悪のことでは永遠に合意できない人々の中でも、こと異性のこととなれば容易に合意に達せられるという傾向にも納得がいく。性欲という人間の欲求のなかでもすぐれて動物的な部分において、人々の需要は限りなく一様に近いのだ。

恋愛市場の拡大と競争の長期化

このように多様な供給(個性)を持った人々が、一様である他者の需要(性欲)に合わせて自分を作り変えていく過程こそが、「ジェンダー・ロール」を身につけるということではないだろうか。

大人しくて料理が得意で母性的な、といった女性の一般的なジェンダー・ロールは、一貫して「男性にとって都合の良いように」作られてきたとフェミニストは教えている。ここでは、小生はこの言説を肯定したい。ところがフェミニストの問題意識とは反対に、女性が自由な方法で恋愛「できる」ようになればなるほど、ジェンダー・ロールの圧力は強化される可能性がある。

前提として、現在の恋愛市場は「完全市場」に近づいている。完全市場とは、需要側が購買行動をする時点ですべての商品の情報を把握することができ、いずれも同じコストで取引可能な市場のことだ。文明の発達によって方言が矯正され、多くの人と意思疎通が可能となり、労働の集約化のために都市生活者が急増し、さらにIT革命によってインターネット、スマートフォンが普及したため、誰もが以前と比して圧倒的に多数の異性を比較・検討した上で選択できるようになった。
この文明の発展は、恋愛至上にも商品市場と同様の変化をもたらした。第一に、顕示的消費の必要を満たすため、結婚相手は少なくとも自らの知人たちに対しては自慢できる程度の魅力を備えている必要がある。しかし、今や個人の見栄の張り合いの相手は、SNSによって飛躍的に拡大している。そこで、必然的に要求水準を引き上げる必要が生じる。第二に、都市とインターネットによって誰もが最も魅力的な異性を「見てしまう」ようになったため、現実的に手に入る異性が相対的に劣って見えるようになった。ハーバード・サイモンの限定合理性仮説によれば、人は効用(満足感)の最大化を目指して行動するものの、知的能力の限界があるために最大の効用を与える商品の存在を知ることができないため、実際の消費者行動においては、最大の効用を与える商品ではなくても、一定の水準さえ満たせば購入されることがある。これを「満足化(satisficing)」と呼ぶが、恋愛市場の量的な拡大は、人々に最大の効用を与える異性の存在を知らせてしまうために人々の満足化を妨げ、最大効用をもたらす異性の獲得への報われない努力を勧めてしまう。第三に、早期の結婚と出産を求める共同体的な圧力がかつてなく弱まったため、結婚相手を探す競争からタイムリミットが取り除かれた。

話を家電に置き換えるとわかりやすい。たとえば、家の冷蔵庫が壊れたため、中の肉や野菜が腐敗する前に別の冷蔵庫を入手しなければならないとしよう。この時、1970年代の世界であれば、街の系列店から高い代金でナショナルの冷蔵庫を買うしかなかった。仮に都市や海外により安くて性能の良い冷蔵庫があったとしても、それを手に入れるためにはあまりにも長い時間と費用がかかった。
ところが、今や全国どの地域でも、ヨドバシ・ドット・コムで注文すれば翌日までには好きな冷蔵庫が手に入る。もちろん、LGのような外資の商品も同じ条件で入手できる。さらにカカクコムのような価格比較サイトを利用して、もっとも有利な販売店を簡単に知ることができる。このような市場環境の変化の中で、地方の小規模系列店は次々と店じまいを余儀なくされた。

恋愛市場も類似した状況にある。女性を供給側、男性を需要側と仮定した場合、従来なら「ブスだけど町内には他に女がいないから」「料理が下手だけど、そろそろ誰かと結婚しないと親が承知しないから」などの消極的な理由(満足化)で求婚される可能性は失われ、男女ともに芸能人にも匹敵する魅力を備え、SNS上の他者にも自慢できるような異性をいつまでも探し続けるようになった。

そして人々は恋愛市場に留まり、年老いてもなお恋人探しを継続する。既に若くして結婚した「リア充」への羨望を捨てきれないからである。親の圧力が弱まったとしても、SNSを通じて供給され続ける既婚者層の理想の家庭像は、未婚者に絶え間のない結婚への羨望を植え付ける。多くの場合既婚者は恋愛至上上位の美男美女であるから、中高年齢層の恋愛市場は概して魅力が中位以下の男女によって構成されることになる。

中高年恋愛市場とジェンダー・ロール

中高年齢層において、男女*1が直面する最大の課題は加齢による性的魅力の低下である。恋愛市場における魅力とは性的魅力と経済的魅力の総和であるため、この年齢層における課題は加齢によって減少した性的魅力を、いかに他の魅力によって補うかという一点に収斂される。
ところが、単純な「カオとカネの交換」である若年層の恋愛市場と比べて、中高年齢層の恋愛市場は女性に不利なルールになる。以下のグラフをご覧いただきたい。

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日本の平均初婚年齢である29才とその直前においては、男女の所得の偏りは比較的小さい。若い女性は一般的な男性とは比較にならない性的魅力を誇るため、完全に売り手市場である。しかし、加齢を重ねるにつれて、独身男女の所得較差は開きが大きくなる。高い所得を得ている男性は経済的魅力を活用してより若く美しい女性を購入しようと考えるため、上方婚志向*2を前提とすると、いわゆる「アラサー」の女性たちが同年齢層かつ自分より所得の高い男性を獲得する唯一の方法は、若い女子たちよりも率先して男性の選好に適応することに限られる。それは、「男性にとって都合の良いように」作られたジェンダー・ロールに適応する努力にほかならない。
以下の表は、資生堂の調査による年齢階級別の化粧品購入金額である。化粧品は自然な性的魅力を補完し強化するものであるが、より性的魅力におとる40代以上と比べても「30代シングル」の購入金額が突出していることがわかるだろう。

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出典

伝統的なジェンダー・ロールに適応することを「保守化」と位置づけるなら、加齢とともに保守化が進行することは、中高齢女性の求婚行動の一環として説明することができる。また、男性にとっての「ジェンダー・ロール」とは家事をしない、育児をしないなど消極的かつ負担のない内容にであるから、ジェンダー・ロールに適応しケア労働を積極的に引き受け、かろうじて結婚を勝ち取ったアラサー以上の女性と同じ数だけ、自動的に発生することになるだろう。

ジェンダー・ロール否定の帰結と女性の「自由」

以上の考察を以て、ジェンダー・ロールが加齢と同時に浸透する現象について一定の説明を与えられたものと考える。ではもし、ある種の政治的圧力によってジェンダー・ロール的なものを撤廃し、たとえば義務的に男性にも育児休暇をとらせるなどのスウェーデン的な政策を実行した場合、恋愛市場にいかなるショックが加わるだろうか。

結論から言えば、それは「男女ともに平等に所得を得て結婚し、子供を産むことができる」社会の実現には貢献しないだろう。高い所得を得ている中年以上の男性にとって、ジェンダー・ロールに適応しない(献身的でない)同年代の女性をより若い女性の代わりに選択するメリットは存在しない。ゆえにジェンダー・ロールが禁止されてしまえば、彼らは単により若い女性に食指を伸ばすことになるだろう。そしていったん売れ残ってしまったアラサー以上の女性は結婚を諦めるか、上方婚志向を諦めるかの二択を迫られることになる。だが、後者を選択する女性の数は多くはないだろう。
結果として、ノルウェーのように、貧困国からの若い女性の「輸入」が常態化するはずだ。

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(Think outside the box様の上記記事より引用)

この図でいうnon-residentとは当然外国人のことだからこれは配偶者の輸入を示したものだが、外国人妻の主要な出身国はタイ・フィリピン・ロシアであるという。いずれもノルウェーより所得水準の低い国である。

ここまでの考察を踏まえた上で、自由恋愛主義下で最終的に所帯を持ち、子孫に遺伝子を伝えることができる国民の構成について考えてみよう。女性の最終的な求婚手段であるジェンダー・ロールを容認するのであれば、一定以上の性的魅力を有する女性のほとんどと、少なくとも女性の一般的な水準以上の所得のある男性が最終的に伴侶を見つけることができるだろう。いっぽうでジェンダー・ロールを政治的に規制するなら、性的魅力が中位の女性があらたに結婚できなくなり、その代わりに後進国で高い性的魅力を持つ女性たちが外国人妻として入国することになる。

一方で、そもそも恋愛市場というものが存在して居らず、限られた選択肢と共同体の圧力によってほぼ全国民が結婚を経験するというオルタナティブも存在したはずだ。

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自由恋愛主義とは、結局のところ「強者の自由」でしかなかったのではないだろうか。遺伝的に見れば、恋愛を自由化することによってむしろ淘汰が促進されたことになる。かつてナチスは強制によって優生学を実現しようと試みたが、自由恋愛主義は図らずしてこの残酷な目的を最も効果的に達成したと評価することができる。
性的魅力が中位以下の女性にとっては、加齢とともに男性の恣意に隷属することが求められる自由恋愛主義よりは、ほぼ自動的に婚姻が決定される一方で、意志次第ではジェンダー・ロールに適応しなくても家庭を持つことができる家父長制・共同体主義の近代社会の方が、まだ「自由」といえるのではないだろうか。

 

この記事は、2015年7月の以下の記事を全面的に改稿したものです

serve1another.net

*1:特に女性

*2:女性は自分より社会的地位・所得の低い(=尊敬できない)男性とは結婚しようとしないという傾向

「相対的信仰」の欺瞞とICUにおける学問の理不尽性

※極めてローカルな話題となりますことをお許しください

つい先程まで、シンポジウム「宗教間対話による特別シンポジウム 生きる指針 Hidden Compass of Life」を聴講していた。

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無神論者であるライアン・ワルド氏が欠席されたのが非常に残念であったが、質疑応答も含めて、非常にしっくりこない会であったので書き留めておきたい。

シンポジウムの主な内容

内容としては、いたって普通のものであった。キリスト教、仏教、神道のそれぞれの論者が冗談を交えつつ、各宗教の内容について語った。もし各宗教についての静的な知識を得ることが目的であれば有意義なシンポジウムであっただろう。

「相対的信仰」の出現

特異であったのは、この会では三人の登壇者がみな「信仰は相対的なものである」という命題に同意したということだ。仏教のケネス氏が提起し、他の二名も積極的に同意した説明を拝借すれば

信仰とは、多くの山がある中で、どれかひとつの山を登ると言うことだ。どの山もそれぞれ個性・特徴があるものの、高さは等しく、頂上に達すれば同じような景色が見える。だからこそ相互に認め合うことが可能であるし、また、そうでなければならない。

 ということだ。

ケネス氏は宗教の意義を「救い」に見いだせるとしており、自分がある絶望の中に陥ったとき、周囲を見渡せば様々な宗教という糸が垂らされており、その中でもっとも近くにあるひとつをつかみ、たぐり寄せるようなものだそうだ。

相対的信仰と「死」に対する救い

しかし、宗教を人間の苦しみに対する救いであると捉えたとき、はたして相対的信仰は、多くの人にとって最大の苦痛である「死」*1に対する救いになり得るのだろうか。

もし諸宗教が高さの等しい山々であるとして、そのうちどの山を登っても最終的には同一の真理にたどり着くのだとしたら、人がその中でも特定の山を上るという決断を説明することができない。

他方で、キリスト教を代表する森本あんり教授はキリスト教の殉教者の例を引き合いに出し、「自分の命より大事なものがない生はみじめなものである。人が自らの生より価値があるものを見出した時、その生は尊いものとなるのだ」と発言していた。殉教者らは、例えばローマ帝国の強制を拒否し、生命と引き替えにしてでもキリスト教への信仰を選んだ人々であるが、もし「どの山を登っても同じ」だとすれば、彼らは死を選ぶ必要などなく、むしろ「ローマの神々の山」に乗り換え*2ていればよかったのではないか、ということにならざる得ない。むしろ、乗り換えていれば頂上を目指すこともできたのに、蛮勇に走ったためにその機会を失ったという意味で愚かな行為であったと評価することも可能になるだろう。

このように、ある宗教の体系が絶対的な真理を与えているということを受け入れ、信仰することこそが人に生命より高次の価値を与えるのであり、現代のイスラム過激派の活動からもわかるように、その時人はむしろ積極的に死を選びさえする。

しかし、相対的信仰は異教を否定しない。生や死、善と悪に対する見解を含む教義間の相違について白黒の決着を付けず、異教の存在を容認する。

人が死を肯定するほどの勇気を持てるのは、その宗教の世界観を含めた体系を受容し、それを生命より高次の価値であると認めたときだけだ。ところが、もし異教の存在を容認するとしたら、必然的に生死善悪に関する世界観についても二つの見解が同時に肯定され、存在することになる。すなわち、死の後には裁きの場があり、よき魂のみに永遠の生が与えられるという見解と、死の後には輪廻が待っており、言行の善さに応じて異なった来世が与えられるという見解が併存するのである。

前者の見解を絶対的に信仰している者にとって、後者の見解を同時に肯定すると言うことはありえない。なぜなら、前者の見解の真実性を前提に積み上げてきた自らの生が、後者の見解の方が正しいかも知れないという可能性を導入することによって無意味化を始めるからである*3。これでは死に対する救済にはなり得ない。ゆえに、恐怖に対する救済、なかでも死という恐怖についての救済として宗教を位置づける限りは、生死あるいは善悪に関する矛盾する見解を同時に容認することはできないはずなのだ。

ICUにおける学問の理不尽性

この点について森本教授に質問する機会を得たが、時間のせいもあり散々「What's your point?」と言われたり、ハンドジェスチャーを示されたりなど様々な手段で愚弄され急かされた末、出てきた答えは「君が何を信じて死ぬかということについてなど、私の知ったことではない!」であった。そんなことは訊いていない。

一方で、仏教のケネス氏は「仰るとおり信仰とは絶対的なものである必要があり、実際私にとって仏教は絶対的なものであるが、しかし多くの宗教が存在するこの世界でどう共存できるかと言うことを考えれば、諸宗教の存在は山々のようなものと捉えるほかないのである」という意味の回答をくださった*4

ケネス氏の立場は、ICU的な学問への姿勢と非常に親和的なものであったようにおもう。というのも、思索を開始する以前に「世界は平和であらねばならい(=宗教戦争など起こってはならい)」「人類は平等でなければならい」といった大前提を導入し、それに抵触しない範囲で思索を開始するからだ。その結果現れた結論がいかに矛盾したものであったとしても、「大前提」を疑うことはけっしてしないという思考態度は学内のどこであっても見られるものだ。

その結果が、森本教授のように「他の山」に上ることを拒んで「生命以上の価値」を発見した殉教者たちを称揚しながらも「どの宗教も究極的には同等の価値を持つ」と言ってのけるダブルスタンダード、または二重思考であり、あるいは八代尚宏教授の「女性の社会進出」を無謬の前提とするために上方婚志向を否定し、婚姻率低下の原因を(本来は出生率低下の原因でしかない)「子育て支援の不足」に求め*5、あまつさえ超高水準の離婚率を誇るスウェーデンを称讃する自己矛盾の「フェミニズム経済学」だったのではないだろうか。

*1:正確には「死への予感」

*2:MNP?

*3:仮に「どちらも正しい」という論理的にありえない(1+1が2でかつ3であるような)考え方を試みても、「あの山の方が楽に上れたのではないか。損をしたのではないか。」と囁く心の声を消すことはできないだろう

*4:この解釈は閉会後に複数の学生に話して同意を得たので、おそらく正しい

*5:完結出生児数がほぼ一定である以上、「子育てのしやすさ」はあまり変化していないものと考えられる

自由意思期待説ー創造論と実存主義哲学の統合

この頃、聖書とか神学とかに触れる機会に恵まれている。国際基督教大学という環境に占める部分が大きいのだが、かねてから創造論には十分な説得力がある(ただしその神が聖書の神であるかは留保する)と考えていたので、今までに考えた哲学についての見解との統合を試みた。

前提として、ここでは創造論が真であると仮定したい。宗教ごとに様々な創造論があり、最近ではインテリジェント・デザイン説やサムシング・グレイト説なるものも勃興しつつあるようだが、ここでは単純に「全知全能の創造主="神"が、地球を含む宇宙全体を創造した」という考え方を「創造論」であると定義しよう。小生が創造論を肯定する最大の根拠は、多くの物理定数をはじめとする宇宙、天体間の秩序の巧妙さである。数多くの均衡の元に地球と生命体は存在を許されており、ごくわずかにでも誤差が生じたとしたら間を置かず絶滅するというのだから凄まじい。

意思がなく、乱雑に任せられたものに秩序が宿ることはない。仮に一つの秩序が偶然成立したとしても、その秩序と整合する秩序の体系が都合よく発生するということは通常考えられない。それゆえ、宇宙全体は人類のそれと近似した意識を持った主体によって、意図的に創造されたという仮説は十分検証に値する。

本稿の後半部分では、肉体とは別個の存在である「魂」とその個別性が前提とされ、肉体的な必要以外に魂の欲求を充足する活動を「自己実現」と位置づけている。魂についての過去の考察が流用されているため、必要に応じて以下を参照してほしい。

支払いの思惟喚起作用

少し唐突になるが、小生はかねてより「支払いの思惟喚起作用」なる概念を暖めてきた。言ってしまえばごく自然なことなのだが、人の活動は何かを支払う活動と、受け取る活動に二分することができる。たとえば学校や職場に通ったり、そこで労働に従事するのは支払いである。また、ワインセラーから白ワインを取り出すのも、扇風機のスイッチを付けに行くのも支払いである。体内からエネルギーが流出してゆく。一方で、ワインを飲み干す喉のや胃の働きや、落ち着いた場所で鑑賞するテレビ、扇風機から流れ出る涼風に当たることは受け取りであるといえる。食事や情報など、何らかのエネルギーが流入してくる。また、死という現象は、体内の器官が衰弱したり、怪我やウイルスの活動によって過剰なエネルギーが体内から流出し、生命の維持にどうしても必要な毎秒ごとの支払いが維持できなくなる現象として捉えることができる。ソビエト連邦の計画生産体制と同様に、体内の器官は相互に連携しておりどこか一カ所が故障すると全体が機能しなくなるように設計されているので、体内の容積のごくごく一部を占める箇所における集中的な支払いの結果、生命機能が失われることはよくある。
「支払いの思惟喚起作用」とは、人間によって行われる支払いの大部分が苦痛として意識に上るため、ほとんど必ず意図的・打算的なものとなり、その支払いの対価が十分なものであるかどうか、あるいはその支払いをいかに能率的にこなすかについての合理的な思考、さらには、そうした支払いに充ち満ちた人生の存在意義についての反省を促すきっかけになるという作用をまとめたものだ。
自分や誰かのために料理をするとき、人はそれをもっとも迅速かつ安価に済ませようとするし、面倒だと感じるので、その不快感を補償するだけの対価を何らかの形で受け取らずにはいられない。しかし、母が調理してくれた食事を食べるとき、多くの場合は、それがいかに手間であったか、どんな点が工夫されているかなどといった考えは起こりがたい。非常に道徳的な人であっても、調理をした本人と同等以上の思惟をすることはあり得ない。同じように、YouTubeに投稿する番組を作る人は装飾から音響までの様々な工夫を凝らし、動画編集に要した苦労に見合うだけの広告収益や視聴者数、賞賛のコメントが得られるかどうかを作業をしている間中気にかけるものだが、視聴者はまったく頭を使わないし、使う必要もない。
したがって、もし人が思考によって賢明になり、知識に基づいた思考によって新たな発明をするのであれば、苦労が多く、支払いに満たされた生涯を送っている人ほど、賢明さを手に入れる機会は多いといえるだろう。

「創造」という支払い

さて、支出の思惟喚起作用を踏まえた上で創造という行為を考えると、これが非常に莫大な支払いに他ならないことがすぐにわかる。宇宙はビッグバンの瞬間から膨張を続けてきたものと考えられるが、エネルギー保存の法則を考慮すると、ビッグバンのエネルギーは現在全宇宙に存在するエネルギーと等価であるということになる。しかも、膨張の最中に地球を始めとする多くの天体が形成され、当初の熱と速度のエネルギーは多くの部分が物質に変換されてしまっているというのに、まだ膨張が継続しているという。これほどにエネルギーを要する活動が「支払い」にあたらないはずがない。もし支払いであれば、そこには行為者による意思や目的が存在しているはずであるから、「神様は気まぐれで宇宙を作った」という見解は退けられるべきだろう。
このように創造は何らかの目的を伴ったものであることが考えられるが、その目的とは一体どこにあるのだろうか。さて、支払い行為は一般的に苦痛であるため、人は最小の支払いで最大の対価、すなわち目的を達成しようと工夫を重ねる。人間の場合は知識や能力の制約から十分かつ効果的な工夫ができず、多くの時間と費用を浪費することがあるが、創造主においてはそうした制約は存在しない。つまり、創造主の目的をもっとも効果的に達成するために最適な形質を人類や宇宙のあらゆる存在に与えることができる。
とすれば、人類が存在する意義は、人類が現実に存在している形質から導き出すことができるはずだ。そして、我々は意識していてもそうでなくとも、現在行っていることを行っているまさにそのことによって、創造主の目的を図らずも達成しつつあるということになる。もしそうでないなら、創造主は直ちに我々や世界のあり方を変更することができるし、場合によっては我々が察知できないような方法で、既にそうなっているかも知れないからだ。

人類の形質について

肝心の人類であるが、一般論として、特定の単一の目的を全体で達成するようにはできていないように思われる。たとえば、創造主の目的がピラミッドを建設することにあるのであれば、我々はピラミッドを建設する以外のことにはおよそ興味も抱かないような心理状態に絶えず置かれていて、エネルギーさえもちょうどコンクリートを溶かすことでエネルギーを得る害虫のように、レンガや粘土を消化してピラミッドの建設に費やすエネルギーを作り出せるような酵素を備えていることになっていただろう。しかし現実には、新国立競技場ひとつ建設するにしても様々な意見の対立や争いが発生し、どんなに高名なモニュメントにもその価値を認める人と認めない人がおり、パルミラ神殿さえも最近、人類の意思によって破壊されるに至った。対立は人類の存在と切り離すことができない要素であるといえる。
また、無知も主要な要素である。歴史は繰り返すといわれるが、繰り返すのは学習能力が不足しているからに他ならない。これは誰かを非難する意味ではなく、もし創造主が人類に賢明であり、失敗を繰り返さず成功を更に高めていくことを期待しているのであれば、ただちに我々の記憶力は数百倍にも拡張され、飛躍的にすぐれた記憶装置を誰かが発明するように仕向けられているはずである。しかし、実際にはそうなっておらず、無知や欠乏はそのまま放置され、意思と勇気のある人が解決するのを待つばかりとなっている。
次に、飽和の性質を有していることも見逃すわけにはいけない。人類は多層にわたる欲求を抱いており、ひとつが充足されれば次の欠乏に意識が行くようになっている。だから、五〇〇年前と比べれば誰もが飛躍的に豊かな生活をしていると考えられるにも関わらず、格差を糾弾する声はやむことがない。嫉妬や怨嗟が渦巻き、生活に余裕のある人は顕示的消費に精を出す。何か一定の生活水準に到達すれば誰もが満足して活動を停止するということは、どの国でも発生しそうにない。
上のような人類の一般的な性質を踏まえれば、教会でもたまに教えられることがあり、かつ通俗的な場所ではかなりの影響力を持っている「人は幸せになるために生まれた」あるいは「人は永遠の命を得るために生まれた」といった主張は、大きな誤りであることがわかる。もしそうであれば、創造主は人から死ぬという機能を奪い去ったはずであるし、どんな現象も幸福と感じられるような心理状態に置いたはずだからだ。

自己実現は創造主の期待たりうるか

以上の議論を踏まえれば、人類が何らかの単一の状態や目標を達成するための手段として創造されたわけではないことは明らかになるものの、それでは人類の混乱こそが創造主の目的であったということになる。
もし混乱そのものが目的であり、それを観察して楽しむことが創造主の意図するところであり、単なる虚構に過ぎない人類世界を創造し、同じようなことが繰り返される歴史を展開させて遊んでいるにすぎないとしたら、それはちょうどある人間がコンピュータゲームにのめり込み、虚構の世界に生きがいを求めてキーボードを叩き続けている光景と相似形である。創造主ともあられるお方が、これほど非生産的な快楽に汲々としているものだろうか。先述のように創造とは莫大な支払いであると考えられるが、それほどまでに大きな支払いを非生産的なゲームのために行ったとは考えにくい。
とすれば、我々はただ混乱し続けることではなく、混乱と無知の中に置かれながらも、そこで何かを発見し、自ら設定する目的に従属して生きることを期待されているのではないか。人をいったん自由という刑に処しておき、その中から誰かが這い上がり、強い意志によって外界の混乱を退け、個々人の創造を達成することを期待しているのではないか。
ここで、このような反論が聞かれるかも知れない。もし人々の自己実現に創造主が期待しているのならば、自己実現が不可能な状況に置かれている人は存在していないのではないか。我々は自己実現以前に労働によって糊口の道を得なければいけないが、地球の反対側では餓死が未だに一般的である。自己実現への期待があるのならば、創造主は地上からあらゆる欠乏を既に取り除いているはずではないか。
これは非常に強力な反論である。自己実現とその結果こそが創造主の所望するものであるなら、人類が自動的に豊かになり、紀元前の昔より誰もが理想を掲げ、自己実現の欲求を充足させようとしているような、そういう世界を設計していただろう。
ここで、この仮説は修正を余儀なくされる。創造主の目的は人類全員の自己実現の結果そのものには存在しないのではないか。というのも、人々の自己実現は必ずしも他者のそれと調和しない。ヒトラー自己実現チャーチル自己実現ではあり得ないし、安倍晋三自己実現志位和夫自己実現ではあり得ないだろう。自己実現が個々人の内面にとどまらず、外界を通して行われる以上、そこには常に対立の可能性が用意されており、しかも人々の数が増え、自由になればなるほどその対立は頻発し、先鋭化するのである。さらに、達成された自己実現が誰かを不幸にしたり、誰かの価値観でいえば堕落や罪悪以外の何ものでもないということは珍しくない。世界がこのような状態にあるということは、世界人口全員の同時自己実現そのものは創造主の希望するところではない、ということを逆説的に示している。

意思への期待

結果としての自己実現が失敗した場合でも、そこに注がれた意思は記憶ないしは歴史として保存すことができる。仮にいったんは実現した場合でも数百年、数千年後には跡形もなくその痕跡が消滅し、忘却されていることは少なくない。意思の強さをはかる尺度として自己実現の成否は有用かもしれないが、遺伝子をはじめとする環境や自己実現の内容そのものによって達成の難易度が異なる以上、その有用性は限定的だろう。
達成される結果ではなく、自己実現を追求する「意思」に価値があると考えるならば、人類の様々な性質をも説明することができる。たとえば、人が様々な欲望によって常に何かの支払いに従事せざるを得ないことも、人に挑戦と思惟をもたらす目的があるのではないか。外界の様々な人や現象に触れることで、人は自らの興味がどこに在るか、すなわち自己実現の内容を決定する自らの魂の性質を知ることができる。それは外界に触れることによってしか知ることができないが、外界に向かうことは支払いであるため、何らかの動機、欲望がなければ、人はドアを開けることがなく、したがって自らの魂について知識を得ることもできない。様々な労苦を通して自らの魂についての知識を得るためにこそ、欲望と欠乏が存在するのではないか。
また、人々の価値観が異なり、どんな意見にも必ず対立する者が現れる。ゆえに、どんな自己実現もパレート改善*1的なものにならないことも、常にある人にとって不都合、困難な状況をもたらすことで、それを(主観的に)「解決する」という形で自己を発見し、さらにはそれを通して自己実現を図る機会を与えるためではないか。
繰り返しになるが、もし誰かの自己実現こそが創造主の目的であるならば、人はより有能で、まるで創造主のように何でも達成できる存在として創造されていたはずだ。

こうしてみると、かのキリスト者内村鑑三の説も非常に深みを増してくる。内村はあくまで自己実現の結果とその持続を前提としていたが、それが一部の恵まれた人にしか可能でないということを理解していた。そこで、社会のどんな人物にでも達成できる"後世への最大遺物"として、数々の困難を意思によって貫徹する「勇敢なる生涯」を提唱した。個々人の生の勇敢さはいずれ忘却される運命にあるため「遺物」たり得ないとの批判も可能だが、記憶される範囲において誰かを勇気づけることで、またその人がさらに次の世代を勇気づけるという乗数効果が期待できる点を踏まえれば、ある人の意思の強さは集合的な形で持続し続けると捉えることも可能だろう。。

たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。
それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。
われわれに友達がいない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。

 

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

 

 

ここからは推論というより推測だが、意思という価値を通して、以下のような選別があるかもしれないのでは、と思うことがある。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。
『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。
そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。
『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』

 

新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書

新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書

 

 


つまり、創造主は人々を特定の目的に従事する機会としてではなく、意思と自由を持った存在として創造した上で、それぞれがその自由に値するものであるか、あるいはそうでないかということを、数十年の時間を与えた上で、全知全能の立場から観察しているのではないだろうか。
それらは全て最終的に「刈り取られ」ることは間違いのないことだ。その先のことを我々は観察する手段を持たないが、もし意思そのものを試すために生命が与えられたのだとすれば、その結果に応じて何らかの選別を受けるということは十分考えられることではあるまいか。

 

*1:ここでは「誰一人不幸な人・反対する人を生み出さなず世界を幸せにすること」

「準性的サービス」とビルトイン・アファーマティブアクション

アファーマティブ・アクションという考え方があります。基本的に、社会における資源(人に効用を与える色々なもの)の分配は、自由競争に基づいた合意によって決定されます*1。しかし、特定の競争において、明らかに不利と考えられる属性の人々がいるとき、その属性を有する人々に通常とは異なる有利なルールを適用することで、競争の結果をより平等なものにしよう、というのがアファーマティブ・アクションです。貧困率が高く教育水準の低い黒人に対して一流大学が「黒人枠」を評価するといった例が典型的です。

さて、このアファーマティブ・アクションですが、性別についても「男性のほうが様々な場面で有利な状況に置かれているため、女性に対するアファーマティブ・アクションが必要だ」という主張が国際的に多勢を占めています。日本は伝統的に国際連合とアメリカの圧力に弱い国ですが、その国連も毎年のように日本に「改革」を迫っています。

上記の記事によると、具体的には、以下のような「改革」が求められています。

  1. 夫婦別姓の承認
  2. 再婚禁止期間の廃止
  3. 雇用差別の改善・職場におけるセクハラの予防措置
  4. 指導的地位*2を占める女性を20年までに30%以上にすること

しかし、国際機関が女子差別撤廃を叫ぶ一方、日本は世界一「女性のほうが幸福な(幸福度の男女格差が大きい)」国であることがわかっています。

その理由は職業の分配にあります。所得による幸福度が個人所得ではなく世帯所得によって決定され、1世帯には同じ世帯所得の男女が1人ずついるため世帯所得を原因とする幸福度の格差が開きにくい一方で、職業に由来する幸福度は同一世帯でも夫婦間で別の職業に就いている場合が多く、さらに妻の職業が専業主婦であることが少なくありません。そして、男性に多いブルーカラーの職業は軒並み幸福度が低く、専業主婦の幸福度はあらゆる職業と比較しても最高水準にあるため、結果として女性のほうが高い幸福度を享受する結果になっています。

しかし、そもそもなぜ、専業主婦は高い幸福度を享受することができるのでしょうか。直感的な原因としては、労働者のように上長の監視下に置かれていないこと、子供や地域社会とのコミュニケーションの機会に恵まれていること、時間に裁量・余裕があることなどが考えられますが、真の問題は、なぜ専業主婦がそういう職業になり得たか、ということです。なぜ世の亭主たちは、財布を妻に預け、お小遣い制に甘んじるのでしょうか?また、なぜ妻の要望する生活家電を気前よく購入するのでしょうか?

また、世間では同じ賃金でも、肉体的負荷を伴う仕事や長時間の残業は、男性が負担するのが一般的です。また、ブルーカラーを中心とする幸福度の低い仕事も、機械化が進んだ現代では女性も十分職責を果たすことができる場合がほとんどです。それなのに男性ばかりが低賃金・低幸福度の職業に向かうのは、男性も合理的に行動することを踏まえれば「より高い賃金・幸福度の職業に就けなかったから」と考えるのが自然ですが、その原因はどこにあるのでしょうか。

他にも、若者のデートでは男性が女性におごることが一般的であったり、人気アイドルグループとわずか一瞬握手する権利に数千円の価格がついたりと、世間には一見して理解しがたい「男性から女性への支払い」が数多く存在します。今回は、それを「準性的サービス」という概念を導入することで考察していきたいと思います。

「準性的サービス」とは何か

著名なマズロー欲求段階説によれば、人間の欲求は以下のような階層に分けて捉えることができます。

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一般的な財・サービスの市場で取引されるものは、ほとんど全てが第一・第二の段階にあたる生理的・安全欲求を満たすためのものです。人生でもっとも高価な買い物は住宅であるといいますが、住宅は原始の昔より安全のために必要とされるものでした。近代社会に特有の現象として黄金欲*3が挙げられますが、これも第一・第二の欲求を安定的に満たすための保険として説明することができます。

それ以上の欲求についても市場で購入できる場合があります。経済学者のヴェブレンは「顕示的消費」という概念を提唱しましたが、これは高価な商品の使用価値がより低価格なものとほとんど変わらないにもかかわらず売れることを、他者よりも優越していることを示す目的があるとして説明したものです。

「準性的サービス」とは、第三段階にあたる社会的欲求のうち"Sexual Initimacy"、すなわち「性的親密感」を提供するサービスのことです。さらに、生殖の機会を予感させることで生理的欲求である「性欲」も同時に満たすことができます。したがって「準性的サービス」とは性欲と社会的欲求が入り交じった非常に複雑な欲求を充足させるサービスであり、「生殖にまったく繋がらない」が「供給者が異性であることを要求する」サービスがこれに含まれます。

酸っぱい香りだけで人が唾液を分泌するのと同じように、異性との接触は生殖の機会を予感さえ、一定の情緒的な効用を与えることができます。さらに、異性同性を問わず他者と接触するということ自体が広汎な社会的欲求を充足します。「子作り」に繋がらないにもかかわらず、セクハラ("おさわり"など)が男性に満足感を与えるのもこのためです。

つまり、異性同士の接触は、有償であれ無償であれ、何らかの「準性的サービス」を構成しているということができます。また、準性的サービスは消費者が勝手に性的親密感を感じるために発生するものですから、供給者にとって意識的な労働ではないということも大きな特徴です。

「準性的サービス」の効用における性差

そこに男女がいれば既に準性的サービスが発生しているため、マクドナルドやスターバックスのレジでもそれは日常的に観察できる、ということになります。しかし、準性的サービスに対する効用の感じ方には、男女間で大きな格差が存在することがわかっています。

「恋愛工学」で著名な藤沢数奇氏も、女性への聞き取り調査の結果について以下のように述べています。

—どのようなリサーチですか?

藤沢 まずは、個人的に仲良くなった女性たちに、地道にインタビューしたのです。すると驚くことがわかりました。多くの女性は、日本のSMAPぐらいを基準にして、イケメン、フツメン、ブサメンのスペクトラムを形成しているということです。彼女たちは、キムタクはイケメン、慎吾ちゃん、吾郎ちゃんあたりはフツメンとイケメンの間ぐらい、中居くんはフツメンで、草彅くんはブサメンに近いって言うんですよ! SMAPの中の下ぐらいが「ふつう」の基準になっているんです!

 

—草彅くんがブサメンに近い!?

藤沢 それで僕は驚いたわけです。もしここにふつうの高校のクラスがあって、草彅くんがいたら、間違いなくトップ5%には入りますよね。スタイルも振る舞いも素敵だし。30人男子がいたら、2番目か3番目は確実に行けると思うんですよ。ふつうに考えて。

 

—草彅くんはふつうにイケメンですよ。

藤沢 ですよね。どう考えても、偏差値60は軽く超えてるんです。もし、日本人女性の相手のルックスを判断する基準で、本当に草彅くんがフツメンにもなれないとしたら、偏差値65ぐらいでようやくフツメンなわけですよ。

 

—どれだけ基準が高いのか……。

cakes.mu

このように、女性が男性の行為に対して効用を感じることができるのは、供給者がごく上位の男性である場合に限られます。一方、男性は生物的な理由から、女性から供給される準性的サービスであればほとんど必ず効用を得ることができます。

哺乳類のオスの生殖にかける時間は、理論上は3分でも足りますし、多くの場合、生殖行為で命に危険が及ぶことはありません。こちらは『ばらまいたもん勝ち』で、『複数の女性と関係を持つ』ことは、自分の遺伝子を多く残せることにつながるので、男性の動物本能にとって好ましい事態。そのため自慢ポイントになるのです。

つまり、いかに時間を掛けずに多くの女性に自分の遺伝子をばらまくかが、男性の動物本能として大切だからこそ『量』を重んじるのです。そして、その女性を口説き落とす『コスト』や『期間』が短ければ短いほど『効率的』ですから、そのことを男性は鼻にかけるのです

(感性アナリスト・黒川伊保子さん)

www.tokiomonsta.tv

同性に対しては性的親密感を与えることはできないので、そこで発生する価値はサービスそのものの効用のみとなります。ただい、一般的に女性は男性に対して警戒感を覚える傾向があるので、女性の消費者に対する効用は(ごく一部のイケメン以外の)一般男性よりも一般女性のほうが高いかもしれません。

かくして、消費者の男女比が等しいと仮定した場合の対人・接客業においては、同等のサービスであっても男性が供給するより女性が供給した方が、消費者に与える効用の平均値が大きくなるのです。

産業のサービス化

さて、現代の日本においては、すでに指摘され尽くしたことではありますが、第一次・第二次産業が海外に移動するなどの理由で、第三次産業(流通・販売・サービス)に雇用が集中しつつあります。

f:id:nyaku37:20160515230218j:plainかつては30%強にすぎなかった第三次産業の就業者数が、既に7割を超えています*4。これは、はじめて仕事探す人がいざ職安に足を運び求人票を見回すと、その7割がサービス業のものであるということを意味します*5

 

第一次産業第二次産業においては、生産者が誰であろうと商品の質は変化しないため、性差が問題になることはなく、土地の豊かさや生産設備の技術水準が問題になりました。むしろ、体力的に屈強である男性に相対的優位があったといえます。しかし、人そのものが商品である第三次産業においては、上記の理由によって同じサービスであっても女性のほうが高い価値を提供できるため、より楽で賃金の高い仕事に就きやすくなります。すると必然的に、苦しく、賃金の低い仕事を男性が負担することになります。

また、同じ賃金であれば、女性が無自覚のうちにより多い準性的サービスを提供している分、男性はそれを埋め合わせる分の労働を追加で負担する必要があります*6。それが残業や高負荷作業の偏りにつながっているのではないでしょうか。

さらに、男性が食事代を負担するという一般的な習慣についても、男女が食事をするということが一般的に女性から男性への準性的サービスの供給となっており、男性はその対価を支払う必要がある*7と説明することができます。

このように、(とりわけ若く美人の)女性であればいかなる対人行為においても準性的サービスを提供できることから、同じ所得を得るために必要な労働は男性よりも少なく、男性と同じだけ労働をすればより高い賃金が手に入るということが見込まれます。

社会には、女性に対するアファーマティブ・アクションが組み込まれている、すなわち「ビルトイン」されているのではないでしょうか。その正体は男の「下心」に他ならないのですが、それが人間の一般的な性向であるならば、無視したり盲目的に否定したりするのではなく、それを前提とした制度設計が必要であることはいうまでもありません。

*1:イメージとしては、商人が好きな場所で好きなものを販売し、買い手が好きな値段を付け、商人が合意した場合に取引が行われる、というイメージで大丈夫です。大学のそれぞれのアドミッション・ポリシーを掲げ、それに応じて名乗り出た受験者を、任意の基準で合格させて、受験者が合意した場合のみ入学が許可されます

*2:国会議員や企業の管理職など

*3:直接の使用価値がない黄金=貨幣をひたすら貯蓄することを求める人間の性向

*4:グラフからは切れていますが、2010年の時点で71%にまで至っています

*5:農業や漁業に就職する機会は少ないため、特に都市ではもっと高く出るかもしれません

*6:そうでなければ、雇用主にとっては女性と同程度にしか働かない男性を解雇し、見目よい女性を雇用した方が合理的になります

*7:支払わなければ女性は他の男性と食事をする

「クリエイティブ労働」と「マニュアル労働」

日本では5684万人の国民が働いていますが、これらの労働者は一般的には

という分け方で分類されます。しかし、哲学的な観点から労働市場を考えるにあたっては、以下の分け方がより適切ではないかと思うのです。

  • クリエイティブ(創造的)労働マニュアル(隷属的)労働

この二つは、以下のように対比できると思われます。

  1. クリエイティブ労働においては新規性が求められるが、マニュアル労働においては正確性が求められる
  2. クリエイティブ労働においては個性が尊重されるが、マニュアル労働においては従順さが尊重される
  3. クリエイティブ労働においてはが量に優先するが、マニュアル労働においてはが質に優先する
  4. クリエイティブ労働は分業が困難だが、マニュアル労働は分業が容易である
  5. クリエイティブ労働は独立的であるが、マニュアル労働は集約的である

マニュアル労働であればパートタイム労働である、という誤解がよく見受けられますが、決してそんなことはありません。パートタイム労働者を統括・管理する立場であるフランチャイズの店長や工事の現場監督や戸別訪問系の営業など、マニュアル労働の要素を多く備えたフルタイム労働(正社員)は数多くあります。

少しだけ話題になりました、以下の記事はその好例です。

まるで囚人服のようなジャージを着てラジオ体操のようなものをやっているのですが、この新人研修請負業者は研修の意義についてこう答えています。

Q.

一体なぜこのような「過酷」な新人研修を行うのでしょうか?

(個性をつぶすことにも?)

A.

「新入社員たちは『自分が自分が』というのを出すと、どうしても学生の常識とか、子どもの頃の甘えが出る。基本的には『会社のカラーに合わせる自分づくり』」

(アイウイル 浜中孝之氏)

 彼らには上層部の命令に従順であることと、長時間労働や転勤にも堪えられるほどタフであること、そして命令された作業を能率的に処理することしか期待されていないのです。これは大卒の新卒採用の正社員の研修であるようですから、非正規=単純労働、正規=総合職、といった直感的な分類が誤っていることをよく示しています。

1950年代には、日本の労働者の6割弱が自営業者とその家族でした*1。しかし、現在では15%弱を占めるにすぎなくなっています。自営業者は生産性も収益も概して低いものですから、人口が大都市に移動し雇用者数が増加することは効率化の象徴といえるのですが、その反面、例外なく自ら考えて事業をする必要があった自営業者のうち少なくない部分が、上層部のエリートが定めた手順に従って労働するだけの高機能ロボットへと役割を変えていることを示しています。

日本の経済成長は、国民大多数が各々の持ち場でほどほどの創造性を発揮する構造から、ごく一部の有能な人物が定めた方法に従ってその他の大多数が能率的に労働する構造へと変化することで達成されたのかも知れません。そのメリットを我々はいつも享受しているわけですが、その反面、大多数の国民に知性や創造性が期待されなくなり、暇さえ有ればパズドラに汲々とするような人間が量産される結果をも招いたのかもしれません。

「労働供給の無限伸縮現象」と低付加価値単身者の受難

このブログの筆者は、左翼でもリベラリストでもありません。ですから、本来であれば格差というものは問題視したくないのですが、様々な種類の労働を経験したところ、ヴェブレンの指摘するように「労働者は疲れすぎているので高尚な生き方などできない」ということはどうも真実であると思いました。

かりに疲れる理由がないような楽な仕事であっても、分業の利益が追求されると同時に多くの人が単純労働に就かざるを得なくなっています。実存的な生もないところに豊かさも幸福もないという二重苦です。そこで今回は、「なぜ創造性のかけらもない低賃金の単純労働をするほかない人が増えているのか」という問題意識のもとに、格差問題の原因を探っていきたいと思います。

構造改革と格差

小泉以来の構造改革路線によって、「女性の社会進出」の大義のもと、様々な改革が進められました。具体的には長時間労働が規制され始め、製造業等様々な分野で派遣が解禁されました。また、全国転勤を前提としたメンバーシップ型の雇用システムが女性にとって不利であるとして、「エリア社員」などの導入も始まっています。育休・産休の仕組みも整い始めました。

その結果として、実際に雇用者数は女性と高齢者を中心に増加しています。

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(引用)

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構造改革以前は、「働く」といえば「残業・転勤・終身雇用」の三点セットが大前提でした。ですから、「お給料が安くてもいいから短時間だけ働きたい」という人に与えられる仕事はそもそもの絶対数が少なく、現在主婦や学生のパートが稼いでいる分を企業戦士たちが代わりに稼いでくる、という状況が続いておりました。

 

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しかし、「女性の社会進出」のための「働き方の多様化」により、様々な規制が撤廃され、ひとりの正社員の仕事を多数のパートタイマーに分割することができるようになりました。本来はひとつの階層であった男性の労働者(L1)が、パートタイマーで代替可能な労働者(L2)と代替不可能な労働者(L1)へと分割されたのです。同時に地方への公共事業投資を削減することで人口流入を促進させ、労働力の供給制約はほぼ消滅しました。地方から流入したものの所帯を持てない(女性の所得を上回ることができず結婚できない)単身者が増えたことで、平均家賃も大幅に上昇しています。

また、グラフ上の「(KS)資本余剰」の面積が大幅に増加していますが、これは企業が最高益を叩き出す一方で実質賃金は下がり続けるという現状と符合しています。こちらもご覧ください。

money-and-finance.hatenablog.com

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(引用)

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(引用)

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(引用)

労働需要が逼迫すれば、本来であれば必ず賃金が上昇します。もっとも安い労働力から供給が枯渇していくため、最下層の人々の生活水準が真っ先に向上します利潤のうち事業者や地主が占める割合が減り、労働者が得る割合が増えるのです。

しかし、日本においては

  1. 地方からのほぼ無限の労働供給(=L2)

  2. 外国人の参入(=L3)

  3. 高齢者・主婦・学生の参入(L4)

により賃金の上昇圧力が吸収されてしまったのではないでしょうか。L1=地方からの(低学歴者の)流入は「仕事がない」ために仕方がなく東京に出てくる人が多いのですが、L3(外国人)とL4(主婦)については「労働供給の無限収縮現象」と呼ぶべき動向を見ることができます。つまり、働く必要のない人々が好況になると直ちに労働市場に参入し、低付加価値(=市場で評価されるスキルを持たないので単純労働をするほかない)単身者の賃金水準を抑制する一方で、

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不況になれば真っ先に退出し、生活難に陥る単身者を尻目に、そもそも「働きたいから働いている」②・③の層はまったくダメージを受けないという現象です。伸縮的な労働力である②・③(主婦・老人・学生・外人)の層は、働かなくても食べていけるが、働けば働いた分だけお小遣いになるから働いているに過ぎません。

こうした伸縮的な労働力が存在しなければ、単身者は好況時の貯蓄(労働者の利潤)を利用して生活水準を維持し、また、それによって消費が回復するため再度の好況への呼び水となるのですが、実際には伸縮的な労働力によって賃金水準が引き下げられているため貯蓄が形成できず、不況時にはどんなに不利な雇用条件でも受け入れざるを得ません。文字通り、雇用主への"隷従"を余儀なくされます。

かくして、(オリンピック景気などの)好況は消費が既に飽和している高所得世帯へ追加の貯蓄を積み上げるだけの結果に終わり、市場で評価される付加価値を持たず、パートタイマーと同程度の生産性しか持たない単身者はいつでも最低水準の生活を強いられるのです。消費が飽和している高所得世帯は賃金を貯蓄と投資に充てる為、国債や不動産、貴金属の価格は高騰しますが、生産活動に結びつかないため実体経済は成長せず、いわゆる豊かさには結びつきません。

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非正規問題といえば、新自由主義者からはよく「ほとんどの非正規労働者は、自ら希望して非正規で働いている」との反論が寄せられます。これは疑いようのない事実です。以下引用します。

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引用させていただいたThink out of the box様は

アベノミクスの成果とされる「就業者増加」は、主に「安く雇える非労働力を労働力化した」ことだったと言えそうです。これが「経済的余裕がなくなったために働かざるを得なくなった人々」の増加の反映だとすれば、正というより負の「成果」になってしまいますがどうでしょうか。

と結論づけていますが、不本意に非正規で働いていると回答している労働者の割合が17%に過ぎない以上、この説明は苦しいと言わざるを得ません。むしろ、経済的余裕があるからこそ、低賃金無保証の非正規労働で働くという視点の転換が必要です。

 非正規雇用とは、雇用継続の保証や社会保障がなく、その対価として自由な就業・離職や軽微な職責、短時間・任意時間の勤務等々が認められる雇用形態です。こうした形態で積極的に希望して働くというのは、やはり「お小遣いのために働く」伸縮的な*1労働者以外にありえません。つまり、上記のグラフでいうL4,L3の伸縮的な労働力は、1952万人の非正規労働者のうち1618万人程度を占めているということがわかります。

これらの層は、働かなければ夫の所得、親の仕送り、年金・預金、母国において十分に食べていくことができる人々です。ですから、彼らが働けば働くほど、世帯単位で見れば格差は拡大します。一家を十分に養っていける大黒柱あるいは金融資産がすでに存在する世帯に追加の所得が流入するからです。

総雇用者所得が増えているにもかかわらず格差が拡大するという奇妙な現象の原因がここにあります。

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これは民進党蓮舫議員が国会質問で掲げた看板ですが、実際には安倍政権云々といった問題ではなく、構造改革が開始された90年代初頭以来の長期的なトレンドです。富国生命保険によるレポートでは、より長期のデータが示されています。

f:id:nyaku37:20160328080806p:plain引用元

一方で下は先程と同じツイッターから引用した、新古典派による反論です。

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実質のほうが実際の購買力を反映しますから名目は無視してよいのですが、これは、労働者個々人で見れば実質所得は低下しているにもかかわらず、「総」をつけてマクロで見れば増加に転じているということです。先程のデータと総合すれば、分母(総所得)を上回る勢いで分子(労働者数)が増えているため、一人あたりの取り分が減るということがわかります。

単純労働者との市場競争に晒されていない付加価値の高い労働力(=L1)―いわゆる高度専門職や管理職(1128万人)や公務員(340万人)といった、労働市場の状況に左右されない立場の人々の妻や子、そして十分な金融資産を持つ団塊世代、さらには出稼ぎ目的の外国人が労働市場に参入することによって、高い労働付加価値を持たないが自活して生計を立てる必要がある単身者の賃金が抑制され、構造改革によって地方からも焼け出され、TPPによって完全に叩き出される、というのが実情ではないでしょうか*2

今後、政府は保育所の整備を進め、長時間労働を規制するそうですが、これを行うとさらに単身者の優位性(残業や転勤等を受け入れる)が失われ、お小遣いのために働く主婦が輝く世の中へと進んでしまうことになります。その費用を消費増税によって人頭税的に負担するのであれば、尚更です。

*1:賃金弾力性が高い、と言ってしまえばわかりやすいのですが、グラフの直感的なイメージと合わせるために言葉を換えました。

*2:概算の伸縮的労働者数=1618万人と1468万人という「大黒柱」の数は、きわめて近似しているように思います。両者とも2014年のデータです。前者の方が多いのは、おそらく高齢者のためです。

創造と忍耐について―「訓練」としての勉強必要論

この頃、哲学気取りの投稿が続いていて申し訳なく思う。経済学関連の記事を待望している読者はもう少し待ってほしい。ただいま、個人を生産要素として住居、衣料、食糧などを投入し労働を産出する企業として捉えなおす説をまとめており、目下図面の準備中である。

さて、本稿においても、前々回から引き続く、心身二元論を前提とした議論を続けたい。初学者の妄想に過ぎないと切り捨てられては元も子もないが、心の所在を松果体よって説明する、あるいは宗教のように盲目的に来世や天国の存在を提示するよりは、人間の様々な欲求という認識可能なものに根ざした仮説を展開している、という点においてのみ自負を持っている。そうでなくとも、どんなに小さな単細胞生物さえも自己保存の原理を有している中で、ヒトのみがそれに反する欲求を抱くという矛盾はもっと検討されて然るべきではないか。

さて、前回の記事は時間の関係もあり充実したものとは言い難いところがあったが、結局のところ広義の練習、すなわち反復的な訓練(discipline)や勉強という営みを肯定する結論に至ってしまった。論理的にそうなのだから仕方がないのではあるが、そもそもこのブログ自体学校教育への批判から始まったものである。それは母校への批判であった。

2年も前のことであるので未熟な点も多かろうが、とにかくあの退屈で冗長、そして官僚的な学校教育制度へのアンチテーゼとして始めた以上、その中核をなす「勉強」を肯定するか否かは、すこぶる重要な問題たりうるのだ。

高級な創造物と低級な創造物

前置きが長くなってしまった。まず、精神をより善く(健康に)するものは未知であり、その中でもとりわけ創造の営みこそが最善であり、いっぽうでより悪くするものは退屈であるということは既に論じた。したがって学校教育もセンター試験を唯一にして至高の目標として記憶の定着をはかる活動である限りは、やはり退屈(反復的)な活動であることを免れないのだ。

一方、最大の善であるところの創造の営みについて、今まで以上に仔細に観察を加えると、その中でもより高級な創造と、より低級な創造に区別できることがわかる。具体的な例を挙げるとすれば、文筆におけるライトノベルと純文学の区別がそうであろう。ページの半分以上がよく意味の分からない擬音語で埋め尽くされるかかる種類の文筆は、よくジャンクフードやポテトチップスに喩えられる。もちろん読者・消費者は高級な創造物からも低級な創造物からも本人にとって最大の快楽を享受しており、多くの選択肢と自由が保障されたうえで自発的にそれを選択しているのであるが、しかし高級・低級の区別は直感的に疑い得ないものだ。上品、下品(じょうぼん、げぼん)と言い換えてもよいだろう。

この直感的な区別をさらに掘り下げていくと、それが能力の高低という区別に起因していることに突き当たる。すなわち、高級な創造物はそれを作るにも消費するにも、一定の能力が必要である。この場合は知能が必要とされる。知能は他でもなく前頭葉に蓄積された知識とそれを交換するニューロンの活動であり、他の筋肉や器官の働きと等しく物質的なものだ。一方で、低級な創造物はそれを作り、消費するために必要な能力の水準が低い。ライトノベルの下には、少年ジャンプに掲載されているようなワンパターンのマンガがずらりと並んでいるのだ。それは基礎的な漢字の知識さえも要求しない。

さらにもう一つの論点は、ものの消費が再帰的に個人の能力を規定するという点である。人のあらゆる能力(知識も身体的な熟練も含む)は外部からの働きかけによってしか成長しないものだから、ある時点で容易に消費できる創造物ばかり消費していては、より高級な創造物を消費するために必要な能力は得ることが出来ない。それどころか、必要とされなかった能力が徐々に退却していくため、むしろ能力を悪くする結果となる。

つまり、高級な創造物とは、それを作るにも消費するにも比較的高い能力を要求し、かつ、それを作ったり消費したりすることで、個人の能力をますます高める作用をもつ創造物のことである、と定義できる

訓練と能力の向上

もはやおわかりかも知れないが、上の定義には少しツッコみどころがある。ある創造物との関係が個人の能力を向上させるとき、いわば階段を一段昇ろうとするわけであるが、これは本来不可能なことだ。なぜある能力しか有していないにも関わらず、より高い能力を必要とする創造ができるのか。この能力の向上という現象は、さきほどの「基礎的な漢字の知識」を「より広汎な漢字の知識」に高める過程を思い起こせば容易に把握できるはずだ。

苦しいのである。

新しい漢字に出会うことは、まちがいなく未知との遭遇であり、それは精神にとって善いことであるはずだ。しかし、人間の将来的な脳の能力不足ゆえに、「未知」を自己に包摂し、創造活動に利用できるほど手なずけるためには、「未知」がもはや「既知」になったあとも、しばらくそれと付き合ってゆくしかないこの短い期間は間違いなく退屈そのものであるのだが、これを通過しないことには、現在享受している以上の未知に出会うことはできないし、未知を自ら創造することも叶わないのだ。外国語の習得がもっとも説得的な例だろう。

つまり、脳やその他の器官を訓練するための一時的な退屈を忌み嫌うことはまさに、精神にとっての「長期的期待の誤謬」といえる。もしこれを忌み嫌うなら、その人はある水準の知能で消費でき、かつ入手できる、あらゆる創造的な遺産を消費してしまい、あとには長い退屈の時間が待っていることになるだろう。他の人と共同して何かを観察したときにも、ちょうど美術品がそうであるように、知識の少ない人が得る感動は知識のある人よりも常に少ない。世界はきちんと存在するにも関わらず、それに色をつけることができない色盲的な状態にあるため、何もないようにしか思えないのだ。

学校は何故人をつまらなくするのか

以上のことを踏まえれば、まず以下の一般的な原則が導かれる。

人間の無能ゆえに必要な訓練期間の退屈は、長期的な精神的快楽のために受忍せざるを得ない

これを踏まえれば学校の勉強もスポーツの反復練習も同時に正当化されるのであるが、では、なぜ(多くの)学校はあれほど人をつまらなく、凡人の指示待ち人間に育てるのだろう?

もし学校が効果的な前頭葉の訓練の場であれば、先生の言うことをよく聞いたお利口さんの生徒ほど、早いうちにより高級な創造物を生産・消費できる人間となり、大学に入った後に何をすればよいかわからないとか、明らかに退屈な労働に何の苦痛も感じない精神が麻痺した人間が大量に出回るとかいった事態には陥らないはずだ。

しかし実際には、特に日本に入り浸った人物を中心に、まったく就活を成功させて身体の生存を確保することにしか能がない人間や、リスクを負いながらも未知の体験を得ることを厭い、駄サイクルの輪の中に偽りの共同体を作り、承認欲求を満たし合うだけの人々が多く見られるのだ*1

これは日本という国に独特の現象であり、かつ一部の例外的に自由な学校を卒業した人物にはこれが見られないことから、おおよそ日本の一般的な教育制度が彼らの精神を殺していると仮定してよいだろう。

前頭葉の訓練の場であり、人々をより高級な創造に供し得るものに育て上げるはずの学校が、なぜか卒業すると、優秀な前頭葉(豊富な知識と論理的思考力)を有していながら、創造性がまるで欠落した人間になってしまう。つまり精神をより不健康にするものを多く与えているからそうなるのだが、扱っている材料(国語から理科社会までの科目)はそれを知らない人にとって新鮮な未知の世界であるはずだ。問題はどこにあるのだろうか。

学校における知識の質的な劣化についての仮説

未知の世界を凝縮したものであるはずの教科書が、なぜか前頭葉を鍛える一方で精神を殺してしまう。本来であれば、短期的には先進を不健康にしても、長期ではそれをより善くするはずなのだ。

仮説1:高級な創造物を消費する機会が少ないから

学校において、たしかにより高級な創造物を消費する能力を人は身につけているが、当然ながら反復的な学習は精神を一時的に不健康にするものである。これは美術史を徹底的に学習した後に美術館に足を運ぶのと同様、定期的にその能力を活用して精神的な快楽を得ることで再び健康さを取り戻さなければならないのだが、現実的には間断なくテストや受験が控えているため、せっかくの知識を消費して快楽を得る機会は少ない。トレーニングのしすぎで超回復の時間をおかないようなものだ。かくして、訓練による不健康化だけが継続し、精神は6年間を終える頃にはもはや手の施しようがないほど衰弱した状態に陥ってしまう。

仮説2:生徒の個性にまったく配慮していないから

一般的に精神は未知によってより善くなるものであるが、多くの未知の中でもどの未知によって刺戟を受けるかは個々人によって異なる。ある人は歴史に強い興味を持つが、その人がガラスがなぜ透明であるかということについても同程度の興味を持ち、それを知ったときに感銘を受けるとは限らない。まったく興味がないことに関する未知の情報は、知っての通りいかに高級であっても退屈で睡眠を誘うものだ。

学校はセンター試験や学習指導要領の関係上、一部の科目を除いて個々人の興味関心に適応させることはできず、よほど広汎な興味をもった生徒でない限り、その時間の少なくない部分を「未知ではあるが退屈な」情報の暗記に費やしてしまう。興味がないことについては仮説1のような消費の機会も得られないことから、その獲得に費やされた精神の疲労は回復されずに積み増しされてしまう。

仮説3:内容が表面的であり、因果関係を捨象しているから

学校教育は各種試験への対応上、「浅く広く」の教育になりがちである。このとき、試験で問われるものが事実関係の正確・緻密な知識であることから、年表を丸暗記するような学習が行われがちである。しかし、単に歴史的事件や人物、史蹟の名称や概略と、それがなぜ発生し、相互にどう連関しているのかという因果関係も含めた知識とでは、試験で正答できるか否かは同じであっても、創造的活動に活用できる教養(=能力)の質としてはまったく異なる。結果として、表面上効果的な前頭葉の訓練であるかのように見える学校教育は、実際にはほとんど生徒の知能を向上させておらず、もっぱら暗記によって精神を疲労させているのみで終わっている。

 

以上の仮説をひとまず案出したが、果たして妥当しているだろうか。

より高級な創造物と関係するために、一時的な忍耐をともなう反復的訓練は必要だが、その疲労は高級な創造物との関係によって回復されねばならない。また、個性の持ちようによっていかに高級な創造物であっても快楽を得られないことがあるため、精神の健康性の追求は個々人がその関心によって選択した階梯によって行われなければならない。ひとまず、こうした結論に落ち着くことができるだろうか。

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*1:当然ながら筆者の主観に過ぎない。しかし、日本にはスティーブ・ジョブズが生まれない、という言葉から多少の示唆を得ることはできるだろう。あるいは市役所に足を運ぶといい。