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「正義」を手放すことは怒りを手放すこと

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最近、一向にブログの更新が滞っている。

もともとは社会正義の存在を信仰して始めたブログなので、社会正義よりも結果、金銭を崇拝する生活に切り替われば更新が難しくなるのは当然のことかもしれない。気がついたら、はてなの契約更新さえも怠っているありさまで、独自ドメインを失っていた。

さて、今回は最近身近におこった事件から人間関係のよいノウハウを学んだので、ひとつ「シェア」してみようと思い、筆を執った。

「正義」の争奪戦

人間関係は、トラブルの発生によって用意にこじれ、解消してしまう。しかし、トラブルが起これば必ず人間関係の断絶に発展するというわけではない。最近の経験から、この分水嶺は「責任」の押し付け合いが解決するか否かにありそうだ、という心証を得た。

一つ例を挙げよう。

もう2年も前のことになるが、実家のある高知から東京に戻る高速バスの便で、小生は2列目の左の席に乗っていた。途中、徳島で別のバスに乗り換えなければならないと知らされ、眠い目をこすりながらも、2番めのバスの同じ席に腰掛け、しばらく経過した後のことだった。

消灯後なので車内は静まり返っており、暗かった。小生は多少窮屈に思いながらも眠りにつこうと、アイマスクを忘れたことを恨めしく思いながらも目を閉じようとしていた。

その時、突如、前の席の背もたれが勢いよく倒れ、眼前10cmの地点まで迫ってきた。たまりかねて、前に座っていた男の肩を叩き、

「ちょっと、おたく、倒し過ぎじゃないですか。最前列だからゆとりもあるでしょう。勘弁して下さいよ」

と苦情を申し述べた。すると男は、

「リクライニングがあるんだから、多少は倒しても良いと思いますがね」といいながら、半分ほど座席を戻してくれた。そこで軽く礼を述べ、一息つきながら睡眠の途に戻ろうとした。

しかし、15分もしないうちにバスは明るい駐車場に停車し、人の動く音が聞こえた。パーキングエリアである。こうなったら眠気も何もあったものじゃないから、小生も外へ出て小用を済ますことにした。

 

ところが、帰ってみると、いやに席が座りにくい。明らかに先程より狭い。バスは駐車場を離れていたが、慎重に慎重に考慮し、思い出し、やはり男がまた席を倒したのだと判断して、男の肩を叩いた。

しかし男は狸寝入りを決め込んだのか、反応がないので、この際だから男の席を激しく蹴り上げた。すると男は、

「一体何なんですか。リクライニングならさっき戻したでしょう」と述べたので、

「いや、私が休憩に行っている間にまた倒したでしょう。いい加減にしてもらえませんか」

「証拠でもあるんですか」

「席のポケットに入れている荷物が明らかにさっきよりも近くて、寝れたもんじゃないんですよ」

「それは頭上の棚に入れればよいでしょう」

「すでに別のものを入れているんです」

周囲をはばかりながらも、こういった問答が始まった。

男は、小生を無視すれば一晩中座席を蹴り上げられることになるから、交渉のテーブルから降りるわけにはいかなかった。

そのうち、男は小生に、こんな交渉を持ちかけてきた。

「リクライニングはあなたが納得するだけ戻してやるから、私がこっそりと席を倒したと主張したことは撤回して、改めて『席を戻してくれませんか』と頼みなさい。もちろん朝まで、絶対に席を戻すようなことはしない」

小生は少し困惑し、

「それはとにかく言えばいいということですか」

と問うたが、男は「そうだ」と短く返すのみだった。

男は暗闇に目玉を光らせて、わりあい真剣な顔でこちらを睨んでいる。小生は、ここは実利を取ろうと考え、

「わかりました。私の勘違いでした。席を戻してもらえませんか?」

と述べた。

すると男は、おもむろに前に向き直り、リクライニングを半分ほどひっこめた。翌朝になってもリクライニングはそのままで、男は新宿駅で黙々と降りていった。小生はカーテンに映る男の影を見守っていた。

 

アメリカ人は、「Lier」というレッテルをひどく嫌うという。嘘つきという意味だが、これは簡単に用いれば刃傷沙汰に発展しかねないほどの重大な中傷に使われる言葉らしい。この男も、小生が離れている間にこっそり席を倒したという卑怯さを免れることを、翌朝までリクライニングを広々と倒して快適に眠ることよりも増して選択した。

もちろん、これは匿名のやり取りである。判明しているのはお互い、高知に多少の縁があったというだけで、これは方言を使うことからわかるのである。だがそれ限りのことで、その後の社会生活に一切影響するものではないし、家族にだって知れることではない。

だから、男は、利害損得の感情とは関係なく、小生に一晩の快眠を差し出し、代償として「正義」を要求したのだと思う。

「不正義」を忍受する痛み

この男のことなどもう忘れて久しかったのだが、ひょんなことから、小生は男の気持ちを追体験することになった。

小生が大学を離れてすでに1年になるが、細細としたものとはいえ、一応の関係が続いている相手もあった。そんな友人のひとりから、ある日、哲学について語り合うサークルを立ち上げるから、公認を得るためにも名前を貸してほしいと依頼された。彼を、仮にSと呼ぼう。

小生は元来哲学に希望を持っていた人間だし、断る理由もないので快諾した。一応のミーティングというか会合を持ち、3回ほど色々なことを話し合った。それは損益と交渉のことで占められた生活の中で、限定的にではあるが、知的オアシスの役割を果たさないでもなかった。

しかし、肝心の公認を得た直後、小生にとっては大変な問題が発覚する。Sが大学当局に対して、サークルの説明書きと称してバルメン宣言日本国憲法を足して2で割ったような謎の文書を提出してしまったことがわかったのだ。

Sがこの文書を長い時間練っていたことは知っていたし、たまに喜々として読ませようとしたこともあった。しかし、小生を含めたサークルを代表するものとして色々社会経験を積んだ大学職員に提出されるものとは考えていなかったから、それは青天の霹靂であった。

権威や権力を持たないものが発する「宣言」など、なんの効力ももたない。そのうえ、知恵ある人の失笑を買うことになる。なぜなら、それは宣言者が、裸の王様のごとく、権威を持っているという妄想に浸っていることの証左に他ならないからだ。

小生はあわててこれの撤回を迫ったが、Sはあの手この手でそれを渋った。Sが会の全員にこの文書の裏書きを求めなかったことだけは明白であったから、他にどんな末節の事情でSに有利なことがあっても結論に変わりはないのだが、Sはその末節を執拗なまでに主張し、小生にその正当性を認めさせようとした。

だが、小生は今やサークルに居場所を求める必要もなかったので、優先順位はあまり高くなかったから、忙しいのにこのことを考えて悶々とするのは嫌であった。そこでこの件については連絡してくれないように頼んだが、Sは毎日、おそらく放課後の17時過ぎになると、かならずこの話をLINEで持ちかけて、1回でも返事すると永遠に付き合わされた。

そこで、小生はSをLINEでブロックした。今は1時間、2時間怠けることで、容易に数万数十万の金や信用を失う立場にある。そのためには、集中力を削ぐものはなんでも遠ざける必要があった。

その問題でしばらくSとは距離を置くことになり、サークルの次回会合の話も流れつつあった。しかしある日、Sは突如としてグループLINEで、彼が考えたらしいイベントの構想を披露し始める。それはメッセージ67件にも渡る長大なものであったから、斜め読みするのが精一杯であったが、会うことも少しはばかられる雰囲気で突然切り出されても反応に困る性質のものであることは明らかであった。

小生は上記の件も未解決であったから心に大きなしこりを感じていてが、件の文書のごとく謎の行動をサークルを代表して行われて、いつのまにかある義務を負わされていたり、ある一大イベントを行う人物の一人として衆人に知られているようなことになったら困るので、とりあえず内容はさておき、今度あったときに皆で話し合いましょうねというだけのコメントを残した。

そうすると、彼はどうも嬉々としたような様子で小生に感謝を述べ、いまだすごい企画を思いついた恍惚の感が抜けきれないような調子で返答をした。

小生にとって、Sの返答は不愉快そのものであった。痛々しい謎文書に代表されてしまったことについて未だ憤りを覚えており、その謝罪もまだないが、社交儀礼*1として返事をしたにすぎないのに、彼の調子からは、小生が感じているしこりもないかのようであった。加害者の余裕を感じさせられたし、再度の暴走の危険も近いと感じた。

そこで、3日ほど考えた後、小生はSにサークルの会長を辞めるように求めた。コミットメントの量からして他に見当たらなかったから、小生に譲るように求めた。

もちろん小生は今更サークルの会長がどうのといった、就活のネタにすらならないような肩書や権威に興味はない。六万円の印紙税がかかるだけ、合同会社代表のほうが重みがある。かといって、この時点の彼への感情からして、突然辞めると言って公認の下限人数を割らせるようなことはしたくなかった。とはいえ、言葉の表面から裏側の感情や要求を読み取る能力において彼は充分でないと感じたし、仕事の妨げになるからやめてくれと言っているのに毎日LINEで言いたいことを言ってくる人物が、対外的に暴走するのを止められる自信もなかった。

すると唯一の選択肢は、小生が一応代表権を譲り受け、会の名義で行動することを許可する権限を掌握するということになる。そうすれば、少なくとも意図しないところで自分を含むサークルが何かをすることになっていたり、SNSで変な政治的立場を取っていたりといったトラブルはなくなると思われた。

集中力とリソースを削がれるようなトラブルさえなければ、小生にとっても悪いサークルではなかったのだ。

 

しかし、Sは明確な返答を避け続け、なぜそのような話になるのだというような質問から始まって、その他小生の過去の言動に関連する中傷を書き立て始めた。これもチャットによるやり取りであったのだが、SEALDsのようなリベラルとS自身の立場の違いと言ったことを説明し始めたり、求めてもいない自著のレポートを見せようとしたり、もはや要領を得ないことは明らかであった。LINEのときと同様で、ようは自分が相手に見せたいコンテンツが先行しており、相手のニーズを見ようとしないのである。

小生はBrexitのごとく、SからCotrolを取り返せないのであれば、これ以上トラブル因子を抱えるわけにはいかないから、彼がいつまでも是か非かで答えないことに業を煮やして、否だとみなす、と書き残して会話を終えた。

 

しかし、ことは終わっていなかった。

この後、一切の連絡を謝絶したいと申し出ていたのに、Sはあれこれの方法で小生に連絡を取ろうと試み、色々とSの正義を主張し始めた。

それに対して、小生は最初、それを正面から否定する文句を、ごく短い文面にまとめて返答していた。裁判所が被告人の悪あがきを却下する調子で、意味が無いから検討しない、価値が無いから考慮しない、といった紋切り型の返事で話を切り上げようとした。

ところが、そうすればするほどに、Sの送ってくるメッセージは強い悪臭を放つものになりはじめた。順番は前後するが、とうとう小生は女の人気を落とすまいとして問題の短期解決を図ったことにされたし、もうそのメールを見たくないから詳細は控えさせてもらうが、最後の最後には乖離性人格障害か何かといった精神病の診断名まで与えられてしまった*2

とにかく小生の色々な言動にS独自の解釈が加えられ、なんでもトラウマで説明してしまうどこかの心理学のごとく、小生の多くの言動が暗色の動機に塗り尽くされてしまった。

もちろん、それは心あたりもない事実無根の塗り絵がほとんどであった。小生は忍耐強く、枝葉末節の反論は避け、それは君だけの想像であると短く返答したり、その主張自体を無視したりした。だが、そうすればするほどに、小生の心に復讐心というヘドロが溜まっていくのを感じた。

警察できびしい尋問を受けているうちに、被疑者はやってもいない犯罪をやったかのように思い込み、その様子を警官のストーリーよりも詳細に想像して、嘘の供述をしてしまうという。中学の時分、足利事件ルポルタージュ本で知ったことだ。

小生は、反論をしなかったがために、あたかもSの創作が事実であるということを小生が認めて、しかもそれはSだけでなく、小生以外のすべての人にとって自明のことになってしまったというような気がしたのである。その気持は刻々と強くなっていって、ついにはかつてのLINE問答にも増して集中力を削ぐまでに育っていった。

「正義」を手放すこと

そこで小生はすこし時間を取って、Sがなぜ延々とニーズのない自説をあらゆる方法で送りつけて来るのかということについて、検討することにした。その結果、Sも小生とおなじように、Sの認識や世界観に反する事実を小生から突きつけられていて、それでも学生は議論をするのが本分のようなものであるから、それらに対して、いちいち反論せずにはいられないのではないか、という仮説に到達した。

小生はSに何も期待できないという判断を固めていたから、特に具体的な塗り絵は突き突けていないものの、一貫してSの言説には今やなんの価値もなく、人間関係の能力もなければ、もはやその言葉には一滴の雫ほどの重みもないのだ、ということをSから連絡があるたびに言っていた。

Sは政治学者タイプで、Sの価値観に合致するものであれば、どんな文献でも熱心に読み解き、一端の学説を披瀝する人間である。Sにとって、言葉は主力商品といってもよいだろう。それを中心にSの言動自体の価値性を否定し続けた小生に対して、そうやって否定している小生を否定するのでもよいし、改めてS自身の正当性を主張するのでも良いから、とりあえず反論のメールを送って、Sの主張を小生を含む全世界が受け容れたかのような感覚を得たいのではないかと推察した。これは、反論を我慢したときとは正反対の開放的な感覚なのである。

そうこうしている間にも、S自身が会長であることに固執したのに、小生がサークルの会長になったという(今でも意図が不明な)デマをTwitterで1,200名前後のフォロワーに拡散するなど、新たなトラブルの火を今にも点火させようとしていた。

そこで、小生は今朝、今までSの価値性を否定したあらゆる連絡は撤回し、配慮が不足したことを謝罪するので、どうか平穏な感情生活を取り戻させてほしい旨の連絡をした。それと同時に、メールシステムの設定を変更して、知る限りのSのメールアドレスを受信拒否した。

だから、結局このメールが功を奏して、Sの復讐心を鎮めたかどうかは全くわからない。だが、小生の心理には多大な変化があった。あれほど毎時歯ぎしりをして、あのゴキブリをどう磨り潰してやろうかと考えていたのが、7割は減じて、穏やかさを取り戻すことができるようになったのだ。

Sは正義を主張することで、小生はSが正義を語る資格や能力自体を否定することで、結局は自分の側が正義であるということを、お互いに認めさせようと努力していた。どう話し合ってもこの正義を譲ることができなかったから、和解の機会もなかった。

だが、職業生活の必要から欲したものとはいえ、メールの上で正義を放棄するという降伏文書に調印したことは、自分は実際このリングから降りたのだということを心に追認させる。そうすると、先程まで重大極まりない問題であったSのこと全般が、非常に遠ざかった風景として感ぜられた。

この調子で、思考実験的に普段から憎んでいるクレーマーのことや、古い敵のこと、嫌味な親類のことなどを思い出しつつ、ただ「小生が悪いのだ」と念じてみると、不思議とそれらの問題が解決し、遠くに去っていくように思われた。

ふつう、正義を取り上げられると、それに応じた制裁が課せられることになる。

しかし、感情的なもつれについては、たとえ自分が悪い、負けたと認めたところで、特段賠償することもない。我々はついこの2つが不可分だと思ってしまうが、思えば、裁判所という制度によって人工的に結び付けられているに過ぎないかもしれない。

だから今は、いっけん二重思考のようであるが、「小生が悪いね、ごめんね、だからまあ仕方がないか」というようなことをふわふわ漠然と思っている。幼稚園から伴ってしかるべきだと教えられてきた謝罪という儀式さえ、改めてする必要を感じない。

少なくとも小生は、自分に甘いのだとおもう。責任が他人にあると思っているうちは、悔い改めろと思わずにいられないから、小生に意に沿わないくせにのうのうと生きている事自体が憎たらしくなるし、なんとか気持ちにでも金品にでも損害を与えて、その苦しむさまを鑑賞したいと思わずにもいられない。

たが、自分に責任があると思えば、自分のことであるから、まあ仕方がなかったねと許す気にもなるのだ。こうすることで、むしろやり場のない怒りに時間と気力を消耗することも減り、自分を高めることに時間を使えるようにもなるのだ。

説明が長くなってしまったが、怒りや憎しみの宛先は多くても、権力意のごとくならずして復讐の機会もなく、日々怒りをたぎらせている者は少なくないのではないかと感じるので、参考になればと思い記してみた。

*1:誤字ではない

*2:もちろんSは医学や心理学の専門ではない。正確な病名はメールを見たくないのでご容赦願いたい

続・商品価値を分解する

Business

商業をやってみて気がついたのであるが、事業上購入するものや仕入する商品についても、(消費者ではないのに)消費税は徴収される。ただし、商品を再度販売する場合は購入者から消費税が徴収でき、赤字で販売する*1場合以外は徴収する消費税額の方が多くなることから、結局消費税を納めなかったのと同じ事になる。

つまり、商品を購入する時点で、意図しない場合も含めて最終消費者になってしまう可能性はあるわけであるから一応徴税して、結果的に売り抜けることができた場合だけ税を返還するという方式を採っているわけだ。よくできている。

ところで、日本を始めとする先進国*2では第三次産業が盛んになって久しいのだが、第三次産業ほど非生産的なものはない。第一次、第二次産業では原料と生産物はまったく違う態様になっており、原料の時点では人間の利用に供することができないものでも、生産物は高い利用価値を持っていることが珍しくない。

いっぽう、第三次産業における原料と生産物は、(冷静に観察すれば)まったく同じ態様であることが珍しくない。

卑近な例であるが、この場合、鉄人シェフが仕入れたパピコはグリコ社(第二次産業)が製造した生産物であり、鉄人シェフが商品に加えた付加価値は快適なレストランと「鉄人シェフが製造した」というイメージ、高価な皿に載っているという状態といくつかの添え物にすぎない。

もちろん、パピコの栄養価はまったく変化していないので、その意味において第三次産業は「何も生み出していない」といえるだろう。

しかし、価格でみればパピコと鉄人シェフのパピコでは数倍の開きがあるので、消費者の最終効用はこれらの利用価値に直接関係がない工夫によって大いに向上していることがわかる。

本稿では、これらの「利用価値に直接関係がない工夫」、すなわち「付加価値」の分解を試みたい。一見異なる項目に思われるものでも、同一の原因から発しているものは一つの項目として扱った。
なお、以下では筆者独自の用語が多用されるので十分ご注意願いたい。

  1. デザイン、装飾、美観
    同一の機能を持つ商品であっても、消費者の嗜好に合わせた装飾によって付加価値が向上する可能性がある。

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  2. 優越感、選民感情、有限性

    「特別な人しか持つことができない」という意味づけをされた商品は、どんな人でも欲しくなってしまう。どうでもいいDMにも「あなた様だけへのご案内」のようなことが書かれているのはこれが理由である。
    単に価格が高いということが消費者の選民感情を満たすこともあるので、この付加価値に訴えるのは供給者にとって非常に歓迎するべきスキームとなる。
    また、流通する数量に限りがある商品は、需要がある限り何度でも生産される商品に対して付加価値を持つ。ただし、これは生産者にとっても生産コストの上昇を招くリスクがあるうえ、限定品を入手できなかった他者の羨望の的になれなければ意味がないので、そもそも流通量が少ない、人気のない商品には応用できない。

  3. 簡便性、容易性、省時間性
    本来かかるはずであった手間がかからない、あるいは理解が容易である商品は、そうでない商品に対して優位性を持つ。地元の八百屋、宅配弁当、駅チカのマンション、カットフルーツや老人用スマフォの付加価値がこれにあたる。
  4. 軽量性、省スペース性、小分け販売
    同等の機能を有しながら、他の商品より軽量であったり、容積が少ないものは、消費者の自宅の容積や持ち歩けるバッグの重量に限界があることから、重くて大きい商品に対して優位性を持つ。

 

 

*1:これは商法に違反する

*2:個人的には全然そう思わないのだが

転売と生産、価値の付加および剥奪

Business Economics

「転売業」という言葉から多くの人が連想するのは、おそらく「せどり」や「ダフ屋」のような、いかにもゴキブリ業といった感じのビジネスかもしれない。

しかし、実際には世間におけるビジネスの大部分が「転売業」にすぎない。ソフトバンク光、NURO光はソフトバンクソニーがそれぞれ電電公社の回線を仕入れて転売しているものだし、MVNOも同様である。問屋がやっていることは商品の小分け販売であるし、人材派遣会社は労働力の転売をやっているし、大学だって知識の転売をしているわけである。教授は同じ知識を書籍でも講義でも提供し(たまに、あまりにも同じことしか言わないので気味が悪くなる)、大学は中抜きで肥え太る。

いわゆるOEM生産をやっている家電メーカーも、大部分は「転売」にすぎない。最近は、設計図さえもいくつかのテンプレートから選択できるようになっており、資金さえあれば誰でも自社ブランドの商品を販売できる体制が整っているようだ。少し前には、「VAIO Phone」がPanasonicの過去の商品とあまりにも類似しており、VAIOロゴのブランド力を使った転売にすぎないとして批判の的となった。しかし、ブランド物のバッグや時計なども、クオーツ式であれば大部分は日本製の汎用部品を使うしかないのであり、中国などから安く出ている無銘の時計と品質的には大差がない。これも、ブランド力を利用した転売の一種に他ならないのだ。

 

ただし実際には、上に述べたほどに単純な「転売」が行われることはほとんどない。なぜなら、単純転売は模倣が容易(仕入れ先と販路さえ判明すれば誰でも模倣できる)ことから、ビジネスとしての安定性・継続性がほとんどない。それゆえ、実際の転売は様々な付加価値を大なり小なり、伴っている。

  • 商標
  • アフターサービス
  • 利便性
  • ストーリー
  • デザイン

主に、これらの無形的な付加価値だけが「付加価値」と呼ばれる。有形の付加価値は、一般に「加工」と呼ばれることが多いし、ネジに対して木材を加工してタンスにする場合などは、元々の商品よりも加工材の方が分量が多いので、もはや「製造」と呼ばれてしまう。

加工ないしは製造された商品は、多かれ少なかれ、加工ないしは製造される前の商品よりも機能や効能が向上している。ねじと木材の有用性と、タンスの有用性を比較すれば明らかなことである。

一方で、「付加価値」が付与された商品と付与される以前の商品は、実質的な収益性において変わりがない。ここでいう収益性とは、顧客価値や消費者効用と区別するための概念であって、その商品が新たな富を生産する能力を意味している。多くの消費財の収益性はゼロである場合が多い。無銘のバッグであってもグッチのバッグであっても、基本的にはそれが富を生むことはない(投資ではなく消費である)。

だから、以下のような人は、同じものについてより多くの代金を支払うことになる(こうした人が日本の経済を支えているのである)

  • ブランドに魅力を感じる人
  • 商品の使い方がわからないひと
  • 面倒くさがりな人
  • 騙されやすい人、感動しやすい人
  • 外見で物事を判断する人

いっぽうで、商売の世界では、付加価値の一部を剥奪することで価格が上がるものがある。セールスマンの中には、顧客が興味を持っていること以外は何一つ話さない人がいる。これは、複雑なことを長時間聞き、理解することができない顧客にとって、自分が必要としている機能以外の商品説明はすべて雑音でしかないからである。また、工業製品の説明書も、価値が一つにまとまりすぎているので、コールセンターの仕事はおもに顧客の代わりに、説明書の索引を探すことにすぎない。情報を小分けすることに価値が生じている。

 

大事なのは、アダム・スミスが指摘しているように、国全体の富の総量は、人口のうち生産活動に従事する人々の割合できまるということである。とはいえ、付加価値がない状態で商品が購入されない市場においては、つねに多くの人口が商品に付加価値を与え、転売する業務に就かざるを得ない。国富の増大のためには、総合的なリテラシーの高い人口は欠かせないのだ。

『青年社長』から学ぶ―ワタミはなぜ「ブラック企業」となり、しかも失敗したのか

Business

ワタミの凋落が話題に上って久しい。昨年は110億円を超える経常赤字をマークし、虎の子であった介護事業の売却を余儀なくされた。

今後はファミレス型の総合居酒屋を取りやめ、専門店への改装を進めていく方針ということだ。しかし最新の第一四半期決算でも5億円規模の赤字を計上している。前途は依然厳しいと言わざるを得ないだろう。

ところで、このワタミの創業者である渡邉美樹氏(現在は参議院議員)の立志伝的な小説が1999年に発売されている。高杉良『青年社長』である。

青年社長(上)<青年社長> (角川文庫)
 

 知人に紹介されて本書を通読した。本書に触発されて企業を志すものも多いと聞くが、やめたほうがいい。本書は「ブラック企業大賞」に始まる騒動、そしてワタミモデルの崩壊を10年前に予言している。目から鱗の「失敗の教科書」なのだ。

青年ワタミ社長の根性論経営

ワタミが失敗した第一の原因は、ワタミのビジネスモデルが簡単に模倣され、陳腐化しやすいものであったことだ。「和民」出店当時は斬新であったファミレス型の総合居酒屋というコンセプトは、直ちに白木屋をはじめ、他チェーンの模倣するところとなった。また、既に豊富なメニューを用意している他業種が酒類を提供することで和民の競合として立ち現れることにもなった。

しかし、そもそも渡邊社長はなぜこのような被模倣性が高い業態を選択したのか?その原因は、和民が最初に手がけた「つぼ八」チェーンのフランチャイズにおける成功体験にある。フランチャイズは、いうまでもなく経営の自由度が極端に低い開業形態だ。商品の仕入れ先からアルバイトの教育、メニューに至るまで、フランチャイズ契約に則ってマニュアル通りに行わなければいけない。だから、フランチャイズ店の成長は「立地」や「努力」によって大いに左右される。立地は容易に変えるというわけにはいかないから、ワタミは後者を選び、当時の居酒屋業界で頭一つ飛び抜けた成功を収めた。

「渡邊は、「つぼ八・高円寺北口店」でサービスの差別化に心を砕いた。

「まずお店をきれいにしよう。テーブルクロスも、必ず取り替えること。お客様の靴の出し入れは我々がやろう。おしぼりは、膝をついて、開いてお渡しするんだ。しかも途中で二回目を出す。極端に聞こえるかもしれないが、お客様に対しては奴隷になったつもりで接するぐらいの気持ちの持ち方がいいと思う」

 渡邊は、横浜、関内の「遊乱船」で経験した接客のあり方を、「つぼ八」に持ち込み、居酒屋のイメージを一新した。しかも社長兼店長が率先して「奴隷」になるのだから、アルバイトの学生たちも従わざるを得ない・・・サービスの差別化は集客に直結する・・・わずか半年で千五百万円に売上げが倍増、利益は・・・十倍も増加した。

「奴隷」という言葉に反発したオーナーや店長もいたが、「要は気持ちの問題です。接客態度に謙虚さが求められるのは当然でしょう。それを強い言葉で表現したに過ぎません」と渡邊は反論した。
「渡美商事は特別変わったことをしているわけではないのです。サービスの差別化は飲食業に限らず、サービス業全てに求められていることです・・・ありふれたことの積み重ねにすぎません」

渡邊自身が「気持ちの問題」と表現したことが全てを物語っている。気持ちの問題であるからこそ、「つぼ八」から引き継いだアルバイトを少し再教育するだけでサービスの向上を実現できた。経済学的な言い方をするなら、生産要素を増やさずに生産量を増やすことができたのだ。渡邊は、自身のリーダシップによって労働者の賃金を上げずに努力をさせるという究極のフリーランチを掘り当てた。

ところが、その発見も数年もすれば、日本全国の飲食店に知れ渡っていくことは避けがたい。外国人の流入、主婦パートの増加にともなって労働市場が緩和したこともあり、このフリーランチはどの飲食店でも発掘されるに至った。最近では、外国人労働者が働く居酒屋でもおしぼりを開いて渡してくる。こうなってしまえば、和民のサービス水準はまったく「差別化」されていない「あたりまえ」のものになってしまう。

企業はしばしば、「価格競争」という悪手に陥りがちである。価格競争は本質的にクラウゼヴィッツがいうところの「相互作用」であり、こちらが用量を増やせば相手も同じく用量を増やし、どちらかが限界を迎えるまでそれが繰り返される。ワタミはサービスの質を向上させることで他の居酒屋から顧客を奪い、いったんは大成功を収めた。しかし、他店が指をくわえて見ているはずがない。「気持ちの問題」でしかないからこそ、我も我もとサービスを向上させ、顧客を奪い返しに来るに決まっているのだ。

いったんはワタミに破れた居酒屋たちが復讐戦に打って出たとき、ワタミはそれでも顧客を引き留める術を何一つ持っていなかったのだ。

低い企画力とイエスマン役員

ワタミも、単に「根性でサービスを向上させる」という模倣が容易な方法ではなく、既存の居酒屋の設備や従業員、店舗をそのまま転用することが困難な新規性の高い業態を開発していれば、相互作用的な競争に陥らずに済んだはずだ。

しかし、ワタミにはそれができなかった。時間も資金も土地もあったが、人材がいなかったのだ。

渡邊社長は、明治大学の出身である。学生時代からリーダシップの高さで知られ、学生会的な組織を率い、児童養護施設向けのチャリティーコンサートを大成功させる。その頃から渡邊に従い、起業の夢を共有していた同期が創業期の役員となった。正社員は「つぼ八」でアルバイトをしていた13名の学生・フリーターである。

この時点で、渡邊社長以下の役員・正社員に新規性の高いビジネスモデルの発案を期待するのは困難と言うべきだろう。役員は大学時代から渡邊の部下であったわけだし、アルバイトは本質的に「言われたことをやる」のが仕事だ。根本的に従属的な立場であり、それに満足していた者だけが役員と正社員を占めている。

では渡邊社長本人はどうか。もちろん、「つぼ八」のフランチャイジーに甘んじることをよしとはしておらず、独自業態のお好み焼き屋「唐変木」を開業している。後にはこれを発展させ、宅配専門の「KEI太」を展開。しかし、結論から言えばこれらは両者ともに失敗し、ほどなくして閉店を余儀なくされている。

「オシャレ志向のお好み焼き店」である唐変木

「講演旅行の途中、大阪で食べたお好み焼きに舌鼓を打った渡邊は、思わず膝を打って「これだ!」とひとりごちていた。渡邊は、帰京後、さっそく「関西風のお好み焼きハウスを渡美で出店しよう」と提案した。

「関東ではお好み焼きはチェーン化されていないが、関西ではチェーンがいくつもあって、いずれも繁盛している。関東ではお好み焼きが日常食になっていないが、潜在需要はあると思うんだ。渡美独自のブランドを持つためにも研究してみる価値はあるんじゃないか」

唐変木の今後の展開が楽しみですねぇ。居酒屋みたいに高収益は望めないでしょうけど、なんといってもワタミ独自のブランドですから」

「黒澤は、大阪と広島で苦労したからなぁ。唐変木に対する思い入れの深さは俺以上だろう」

「そんなことはありませんよ。私は社長命令に従ったまでです」

として開業したが、数年で

「恥を晒すことになりますけど、東急百貨店の吉祥寺店に・・・出店したのですが、調子が良かったのはほんの二,三箇月に過ぎませんでした。近くのスーパーが持ち帰りの安いお好み焼きを売り始めたからです。結局、今月末で撤退することになりました・・・屈辱的敗北ですよ」*1

「下北は立地条件を間違えました。リーダーとして不明を恥じなければなりません。可及的速やかに撤退する方向で考えたい・・・」

 として不調になり、

唐変木の撤退を決断せざるを得ない。その理由は、業態と時代のミスマッチだ。雰囲気、サービス面で、お好み焼きに付加価値を付け、高単価で売るのが「唐変木」だった。そのためのコンセプトは「おしゃれ」であり、「美味しいお好み焼き」であった。しかし、「おしゃれ」が高単価のイメージなのに対して、「お好み焼き」は低価格、庶民的というイメージを持つ商品である。いわばコンセプト内にミスマッチがあり、ベーシックな業態ではなかった。

といった理由で撤退されることになる。また、唐変木から

とりあえず直営店でデリバリーサービスを始めるが、現代の個食化傾向にマッチしているので、KEI太に対するニーズは増大すると予想されます。庶民の味、お好み焼きの宅配は必ず成功する・・・」

として派生した宅配お好み焼き店の「KEI太も、

平成6年に入ってKEI太の業績はいっそう深刻化し、渡邊は撤退の経営決断を迫られることになる。

「KEI太は撤退せざるを得ないと思う。もはや救いようがないところまで来ていることを、四日間のデリバリー経験で思い知らされたよ。お好み焼きは、わいわい言いながら、お店で食べるものなんだろうねぇ。それと、関東では高級な食べ物のイメージが強いようだ。唐変木も低落傾向にあることを考えると、関東と関西の文化の違いに行き着くのだろうか」

「・・・KEI太は雰囲気、サービスというプラスアルファなき業態なるが故に、全くの商品勝負で、ワタミらしさの「こころ」を表現することができなかった。商品だけが価格の決定要因である宅配は、ワタミの文化とマッチしなかったということになる。ミスマッチの宅配がうまくいくわけがない。撤退の決断は間違っていなかったと思うんだ」

などの理由で撤退に至る。

しかしながら、これらの記述に少しばかり注意を払うと、たちまち複数の矛盾に突き当たる。「関東では高級なイメージが強い」お好み焼きが、なぜ他方では『「お好み焼き」は低価格、庶民的というイメージを持つ商品』とされているのだろう。また、「お好み焼きは、わいわい言いながら、お店で食べるもの」であるならば、どうして東急百貨店では近隣のスーパーが安価なお好み焼きを販売したことによって集客が落ち込んだのだろう?

経営判断がおよそ合理的ではないのだ。そのうえ、初期の役員・社員が上述の理由によってイエスマンによって占められやすい構造であるため、渡邊社長の論理の弱さを誰も指摘できなかったということだろう。

低いコンプライアンス意識と上辺だけの「理念」

よく知られていることであるが、ワタミは「理念経営」の先駆け的な存在である。本書によれば、ワタミの理念は「一人でも多くのお客様に、あらゆる出会いとふれあいの場と、安らぎの空間を提供すること」である。また、「会社は、社員が幸福になるためにある」とも謳っている。

しかしながら、この『青年社長』にはワタミの低いコンプライアンス意識が恥ずかしげもなく描かれている。

午後四時に出店して準備を始めるアルバイトのタイムカードの打刻を五時にして、時給(九百五十円)の一時間分を短縮するせこいことを考え出したのは、笠井である。 「〝KEI太〟はいま現在、

赤字なんだ。きみたちも協力してくれよな。そのかわり、黒字になったら、その分必ず挽回させてもらうからな」

・・・否とも言えないが、挽回はできなかったのだから、結果的にはアルバイトを騙したことになる。

 アルバイトの立場からしてみれば、毎日一時間もタダ働きをさせられ、そのうえ約束された補償もなく、解雇までされるのだから泣きっ面に蜂である。「会社は社員が幸福になるためにある」とは、いったい何だったのか。

また、創業期からの役員である金子、黒澤の両名は「実力主義というワタミの社風をより確かなものにするために、ワタミの「●●ができる人が役員」という人事の文化を守るために退任するのである」として課長に降格する。ところが、物語終盤で商品開発課長の山口なる人物が退職する場面があるのだが、ここで唐突に「山口は縁故採用だった」と明かされる。実力主義とは、何だったのか。

更にいえば、宅配お好み焼き店創業時の「現代の個食化傾向にマッチしている」というビジョンも、理念である「一人でも多くのお客様に、あらゆる出会いとふれあいの場と、安らぎの空間を提供すること」と相反している。本来であれば個食化に抵抗し、会食の良さを提案すべき立場にあるべきだ。営利企業としては当然の行動ではあるが、やはり儲かりさえすればよいのであって、理念などはタテマエ以上のものではないのだ。

失敗の本質

結局のところ、ワタミが手がけて成功したのは「つぼ八」のチェーンだけであった。渡邊社長は、非常なカリスマ性を備えた実行力のある人物である。それゆえ、「つぼ八」のように完成された実績あるビジネスモデルを忠実に実行すれば、強みを最大限に発揮して大きな成功を収めることができる。

一方で、まったく新しいビジネスモデルを発案する作業にはとことん弱い。そもそも論理的ではないボスを誰も批判できないからだ。ちなみに、ワタミを「裏切った」とされている元役員の金子宏志氏は、現在も「かもんフードサービス」の経営者として第一線で頑張っている。ワタミが今更になって進めている個店化(飽きられやすいチェーン店からの脱却)を当初から選択しており、現在では関東一円に35の店舗を運営している。ワタミフランチャイジーであった「つぼ八」は、創業社長が追放されたにも関わらず現在も320の店舗を展開し堅調な経営を続けている。個人ではなく、ビジネスモデルそのものが優れていたのだろう。

起業家というと、商社マンのようにひたすら行動力があり、実行、実践を重んじるタイプの人間が想起されがちだ。しかし、思慮を欠いた実践は失敗を導き、時にはそれが致命的なダメージとなる。

*1:ちなみに、現在吉祥寺駅付近ではヨドバシカメラの7階に大阪風のお好み焼き店がある。すぐ近くの西友やライフでも惣菜のお好み焼きは売られているが、撤退の兆候はない

「可能性のポリティクス」の社会活動論

Philosophy Politics Labor

 

 Abstract

 人は自己保存の欲求に従って行動する主体であり、ある財や行為が自らの生存可能性に与える影響を限定合理的に評価して絶えず行動を最適化している。生存可能性は効用そのものであり、それゆえ、個人が生存可能性の一部分を犠牲にして「支払い」を行った場合、それと等価以上の「受け取り」を期待する。
食糧や消費財の入手が短期的な生存可能性を保証するのに対して、承認欲求や尊敬欲求などの社会的欲求の充足は長期的な生存可能性を感じさせる。そのため、感謝されている、必要とされているといった感覚は個人に効用を与える。それゆえ、労働や各種の活動に「社会的意義」を想定することで賃金とそれを消費・貯蓄することによる効用以外に「物語所得」が与えられている場合が少なくない。これは賃金が発生せず、また必要ともしないボランティア、NPO等の活動においては従事者にとってほぼ唯一の報酬となっている。
ところが、「社会的意義」とはある行為が他者の効用にもたらす影響を、恣意的な時間・範囲・不確実性を前提に切り取ったものでしかない。実際には未来における他者の効用についてアプリオリ的に正確な期待を得ることは不可能であるため、「社会的意義」は常に「偽りの物語」であり、欺瞞である。これを「可能性のポリティクス」と称する。
一方で、あらゆる可能性のポリティクスを否定した地平には、最低限の生活のための労働以外の全ての活動の対価が不可知、すなわちゼロであると想定され、それゆえにそれらの活動がいっさい為されないアパシー状態が現出することを認めざるを得ないだろう。知的に誠実であることは、かえって我々から生の意義を奪い去るのかもしれない。

 

人は、自らの意思によるあらゆる支払いに対して、それに応じた受け取りを要求する。支払いとは、所有する物資や時間、労力、思惟など、本来であれば生存可能性をより高めるために用いることができたあらゆる資源のことである。一方で受け取りは賃金や物資、言語、感情的なジェスチャーなどあらゆる形態をとりうるが、ある行為における支払いと受け取りの総量は、それらによって感じられる生存可能性という意味において、いつも等価になっているし、人はそれを追求している。

これが等価にならない場合、人は第一には受け取りの量を増やし、あるいは支払いを減らそうとする。賃金が予定よりも低いので仕事を手抜きする場合とか、おつかいに予定よりも手間が掛かったので追加のお駄賃を要求する場合などがこれにあたる。第二には、既に確定した取引について、解釈を変更することを試みる。いわゆる認知のバイアスがこれにあたる。詐欺的な商品を購入し、返金ができないと考えられるとき、人はしばしば「勉強料」という考え方を導入し、詐欺的な商品の他に「勉強」と名付けられた経験を支払った代金によって購入したのだと自らに言い聞かせる。飲酒やギャンブルに金を使いすぎ、その月の家賃にも困る程度にまで至ったとき、若者は「この程度のはした金なら、少し働けばすぐに取り返せるさ」と吐き捨てる。この行動は、すでに消費してしまった金銭が自らの生存可能性に与える影響を事後的に再評価し、切り下げているものと見ることができる。いずれの場合にも、取引が行われた時点で交換される資源の量は確定しており、とくに金銭や物資といった形のあるものについては動かしようがない。しかし、事後的に記憶を書き換えたり、取引された資源の評価を操作することによって、人はつねに過去の取引が等価以上の有利な交換であったことを担保しようとする。

感情的な対価による社会生活

そのため、多くの人々の労働や社会活動についても、上記のような方法で絶えず感情的な最適化が行われており、ある行為のために実際に費やされた時間や労力、物資や情動の量が多ければ多いほど、人はその対価に多くの資源を得たことを信じようとする。

受け取り=対価として得られる資源は、支払いの場合と同様、形を持たない観念的なものによって充てることができる。その比率があまりにも高いと「霞を食って」生きることになるが、貯蓄や年金、扶養によってベーシック・インカム的なものが得られる状況においては、受け取りの全部分が他者からの尊敬、感謝といった情緒的なものであることが抵抗なく受け入れられる。いわゆる「やりがい搾取」の状況がこれに近い。

生活に必要な最低の賃金が保証されれば、その残余の部分は貯蓄または奢侈品の消費に充てられ、それらは個人の生存可能性を高めることで効用をもたらす。つまり、賃金以外の方法で直接的に生存可能性を予感させることができれば、それは賃金の余剰部分を増やしたときと同じ効果をもたらす。だから、学生によるNPOインターンシップの大部分は、これらの「やりがい」を与えることによって無償で労働力を確保している。ただし、こうした組織に無償の労働を提供する人々のほうも、同じ時間で賃金が得られる仕事を行い、それで得た賃金で何かを購入したり貯蓄したりした場合の効用よりも「やりがい」から与えられる効用のほうが大きいと考えられるから無償で活動に従事しているにすぎないのであって、それを「搾取」と呼ぶことの妥当性については議論の余地があるだろう。

そのため、必要最低限以上の賃金が支払われるあらゆる職業や、賃金を得る必要がない人々が行う活動については、つねに賃金に対して補完的な役割を担い、感情的な効用を与える「フリンジ・ベネフィット(非賃金所得)」が用意されている。使用者にとっては非賃金所得で労賃を置き換えることはつねに有利な行動となるため、プロパガンダ的な形で「社会的意義」が与えられ、それを受け入れるように求められる場合が少なくない。例えばブラック企業として名をはせた飲食店のワタミでは、「働く目的は賃金ではなく、お客様からの「ありがとう」だ」というやりがいが強制されていた。それ以外の多くの職場でも、その企業が社会にもたらすポジティブな影響が強調されている場合が少なくない。本稿では、これを「物語所得」と称したい*1

このように、使用者やNPOの主唱者等の広範な利益から、労働や社会活動の「社会的意義」はますます強調され、賃金削減の一つの方法として力を持つようになっている。労働者や活動の従事者が受け取る総合的な対価のうちこれらの物語所得が占める割合は、主婦や学生が行うボランティア活動においては100%であり、所得を必要とする職業においては、本来であれば高い賃金を得られたであろう人々が低賃金で従事している場合であればあるほどその比率は高い。神学系の大学を卒業した人物が神父や牧師になる場合、本来であれば初年度で年300万円、生涯では2億円以上得られたであろう大卒者としての賃金を完全に手放し、多くて年200万円程度にすぎない献金収入を生涯にわたって受け入れる必要が生じる。その必然的な帰結として、教会はその社会的な意義や貢献を過剰に強調する。

社会生活と可能性のポリティクス

しかし、ある行為の「社会的意義」を正確に測定し、ましてやそれを事前に予測することは困難であることが多い。「人間万事塞翁が馬」ということわざが示しているように、短期的には災難であったことが長期的には利益をもたらしたり、誰かにとって利益であったことが、それ以外の誰かにとっての不利益である場合が多い。誰にも不利益を与えずに誰かの利益を増やすことを「パレート改善」と呼ぶが、長期的な視点で考えた場合や波及効果を考えた場合、実際の社会生活においてパレート改善を実現することは非常に困難であるし、ある行為が結果としてパレート改善であったか否かは、神の視点によってしか把握できないことに属する。

ところが、使用者は「物語所得」を用意せずにはおかない。パレート改善が合理的に実行できないという事実を謙虚に受け入れ、「われわれの活動が社会に与える影響は予測できませんし、事後的に評価することもできません」と表明してしまっては、誰一人として無償では働こうとしないからだ。それに、個々の従事者や労働者にとっても、所与の賃金を受け取った上で自主的に「物語所得」を生成することができれば、労働時間や強度を少しも増やさずに効用を幾分か増やすことができる。そこで、人は以下のベクトルを物語所得を最大化する地点に調整し、そこに留め置こうと試みることによって、「偽りの」物語所得を作り出そうとする。

  1. 時間的な予測(長期⇔短期)
  2. 範囲的な予測
  3. 不確実性の予測

パン屋で働く人々は、ただパンを販売して所得を得るのみならず、彼らがパンを販売していることが「人々を幸せにしている」という想像を消費することで、追加の非賃金所得を獲得したいと考えている。そのため、彼らは彼らのパンを食することによって笑顔になる家族の姿を想像する。しかし、ある時点ではパンを食べることによって笑顔であった消費者も、そのパンによって肥満に陥るかもしれないし、ある人はそのパンによって糖尿病発症の閾値を超え、長期の入院を余儀なくされるかもしれない(時間的な予測の調整)。しかも、彼がパンを販売することによって、やむを得ない事情で彼よりもパン職人としての腕前が劣っていた誰かが職を失い、家族とともに路頭に迷うかもしれない(範囲的な予測)。そのうえ、パンを誤って食べた赤児がそれを喉に詰まらせ、窒息死するかもしれない(不確実性の予測)。これらのパターンが発生する確率はいずれも事前に評価することができないため、等価であると考えるしかない。しかし、パン屋が受け入れ、現実に日々消費する物語は、あらゆるパターンの中でも最も彼に充実感を与え、その行動を肯定するものだけである。そのパターンにおいて前提とされている時間的、範囲的、そして例外の範囲は恣意的なものだ。

このように、ある行為による外部効果を恣意的な基準系において予測し、その行為の道徳的な正当性として導入することを「可能性のポリティクス」と呼びたい。自らの行為によって波及的に継起する出来事とそれが人々の幸福感に与える影響について、われわれは「わからない」という以外の言明をすることができないはずだ。しかし実際には、ある特定の時点、範囲、不確実性の程度において発生する状態とそれがもたらす効用だけが行為の結果として事前に想像されており、その想像を消費することで人々は物語というフリンジ・ベネフィット(非賃金所得)を獲得し、日々の気晴らしの一助にしている。

「偽りの物語」とポストモダンアパシー

見てきたとおり、「物語所得」は論理上必然的に、無限の可能性を持つ未来のうちの特定の一部分だけを真実として受け入れ、それ以外の可能性を排除することによって作られる「偽りの物語」を前提としたものになる。我々は投げたボールの軌道を予測することはできるし、ボールが落ちたときに地面が揺れる大きさや音の量さえも、その気になりさえすれば事前に計算することができる。しかし、そのボールを見た時に個々人が感じる情緒や、ましてやそれが「幸福」であるか否かについては、まったく正確な予測をすることができない。高度な心理学の知識によって予測を立てたとしても、それが妥当であったことを検証する手段がない*2。それゆえ、我々の行為が通時的に、範囲の制限なく、不可知の不確実性のもとで他者に与える効用について、我々は「わからない」以外の立場をとることは許されないのだ。

しかし、ある行為の結果が「わからない」という事実を正確に評価してしまうと、それは我々の受け取りを構成する一部分として機能しなくなる。受け取りが存在しなければ、支払いも存在することができない。したがって、人はアパシー*3に陥る。生活のための労働であれば、物語所得がまったくのゼロであっても最低限の労働意欲を持つことができるだろう。そのため、このアパシーNPOやボランティア団体、政治団体などの余暇を活用して行われる社会活動にとってより大きな問題として立ちはだかる。

「可能性のポリティクス」は非常に不誠実である。事実としてわからないものを、わかると強弁して止まないからだ。しかし、この幻想なくしては、人々は最低限の労働以外の何かをすることがもはや全然できないということも、また事実であろう。しかし我々は理性的な個人として、可能性のポリティクスがひとつの集団幻想でしかないことを認識し、特定の行為こそが社会善であり、あるいは正義であると主張する人々から距離を置く必要ことが求められるだろう。その上で、他ならぬ自分自身が余暇を何に充てるかという問題について、正面から取り組まねばならない。

*1:社会学の世界では「マクドナルド・カルト」と呼ぶそうだが、日英両方で調べても該当がない

*2:内観報告によるしかないが、内観報告から認知のゆがみやウソの可能性を完全に取り除くことはできない

*3:無気力

同性婚の不可なるを説く―再生産を巡る報酬的秩序の観点から

Order Gender
Abstract

現在我が国においては、同性愛者であっても養子縁組によって婚姻と同等かそれ以上の実際的なメリットを享受することができる。それでもなお同性婚が要請される理由は、婚姻が単に経済的なメリットをもたらすに留まらず、当事者間に精神的な満足を与えるものであるからに他ならない。

その価値は共同体によって認められ、また与えられるものであるが、ではそのバーターとして夫婦から共同体に捧げられている貢献とは何だろうか。筆者が思うに、それは人口の再生産という代替不可能な貢献である。同性愛者は他の男女が生んだ子を譲渡されて育てることはできるが、それは社会に新たな人口をもたらすものではないし、保育園や孤児院、ボランティアによって代替可能なものだ。一方、最終的に人口を再生産するという夫婦の機能は、現在に至るまで夫婦以外の何かによって担われたことがない。
婚姻という関係にのみ認められる特別な承認は、この特別な貢献と引き替えに与えられているのではないか。もしそうであれば、同性カップルがそれを得ることは困難というほかない。仮に制度上でそれを実現させても、反対勢力による攻撃が常に彼らを不安に陥れるだろう。
そこで、筆者は同性カップルの関係を婚姻制度とは別個のものとして新たに民法上の地位を与え、同性カップルが実際に多くの孤児などを引き受けて共同体への貢献を果たすことで、長い時間を経て独自の名誉ある地位を確立していくことを提案する。その名誉は同じ貢献を果たしている保育園や孤児院、ボランティアなどと同程度のものになるはずだが、それは決して"取るに足りない"ものではないはずだ。

先年の春、東京都渋谷区は「同性パートナーシップ証明書」なるものを発行し始めた。現時点において我が国は同性婚を認めてはいないが、渋谷区の制度を利用すれば擬似的に公的セクターによって承認された結婚的なものを体験することができるため、ゲイリブ運動の界隈では大変歓迎された。
北欧を中心に、すでに同性婚を認めている国も少なくない。我が国に最も影響を与えやすいアメリカ合衆国においても、最高裁判決によって全ての州でこれが認められることになった。キリスト教の信念を理由に同性婚の受付を拒んだ女性事務官が収監された事件は記憶に新しいだろう。
全体的としては同性婚承認の方向に進みつつある自由世界の情勢を踏まえつつ、本稿では我が国における同性婚の承認、すなわち法制化が共同体に与える影響について考察したい。

同性婚とは何か

まず、同性婚という概念そのものについて、ごく簡単に当事者の主張を参照したい。
EMAと称するゲイリブ団体は、公式ウェブサイトで「なぜ同性婚が必要なのですか?」という問いに対し、以下のように回答している。

 

同性愛者は、国や時代を問わず、一定割合存在します。社会のある人たち(異性カップル)には婚姻による全ての法的・社会的な権利と義務関係、そして「結婚」という特別の響きを持つ関係性を認めるのに、一方でその他の人たち(同性カップル)に対してこれら全てを否定するなら、それは差別です。

自ら選択する自由のない、生まれた出自や階級、人種を超えた結婚を禁止するのが差別であるのと同様に、自分で選択したものではない「性」により結婚を禁止するのも差別です。

結婚すると、同居・協力・扶助義務、守操の義務が発生すると同時に、遺産の相続権、被扶養配偶者として年金、医療、税の控除、労災補償の遺族給付などを受けられるようになります。これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません。憲法第14条1項が定める「法の下の平等」の観点からも、同性カップルに平等な権利義務関係を認めることが必要であると考えられます。同性カップルに結婚を認めない現状は「法の下の不平等」です。

社会のあるグループを差別する社会は、そのグループの能力を十分に活動できず、経済的には不利益です。実際、今日同性婚あるいはパートナーシップを認める国の一人当たりGDPは、それらを認めない国の平均の4倍近くになっています。今後日本は40年間に人口が半減しますが、こうした急激な人口減少に対応するために、国民一人一人の能力を最大限に発揮しなければ、経済は一層深刻な縮小を余儀なくされます。

また、配偶者が外国人の場合は、日本に居住したり帰化できるようになります。現在では多くの国で同性婚が認められますが、それらの国で結婚した同性カップルの一方が仕事で日本に赴任する際、配偶者を日本に帯同できないという問題が生じています。日本は高度な知識や技能を有する外国人を受け入れ、経済の活性化を図ろうとしていますが、外国人の同性カップルについて、配偶者の日本の居住を認めないことは日本の経済的利益を損なっていると言えます。

さらに、外国人の同性パートナーと結婚した日本人は、2人の婚姻が認められない日本を離れ、婚姻が認められる相手国に移住することが多く、日本の人口減少に拍車をかけていると言えます。

婚姻の法律上の効果に加えて、結婚は2人の相互理解と信頼、協力と家事の分担などの意味があります。こうした結婚の意味は同性カップルにとっても重要なものです。

emajapan.org

 

この主張は、道徳的側面の実利的側面の二本立てで同性婚を擁護する内容である。すなわち、道徳的には婚姻に伴って発生する諸々の権利と義務を確認しつつ、「これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません」と結論づけている。合理的理由を欠いた区別は不平等であるから、それは差別に他ならない。
実利的にも、諸外国と異なる婚姻制度が高度人材の一部に我が国への移住を断念させていることは、その影響の大小はさておくとして、事実であろう。ただし、経済的利益が見込めるということは、必ずしもその政策を実行しなければいけないという規範的な言説を正当化しない。戦前に実際主張されたように、日本語をまったく廃止して英語を公用語にすれば、海外との経済的な交流が深化され、「高度人材」の移住も進み、投資が容易になるため経済成長に裨益する可能性は非常に高いが、それはあくまで日本語が持つ全体的な価値より経済的な利益を優先するという判断がなされた場合にのみ実行されるべき政策であって、そうした社会的な合意なくして正当化されることはあり得ない。

次に、朝日新聞傘下のネットメディアであるハフィントン・ポスト日本支部が、アメリカ合衆国同性婚をしたゲイカップルに同性婚の意義を尋ねた記事がある。要点を抜粋して検討したい。

―どうして結婚という形を選んだんですか?
浩)愛し合っていれば結婚願望が訪れるのは、男女のように自然なことだと思います。あとは、例えば自分が突然亡くなったら、不動産を合法的に彼のものにできるようにしたかったということですね。(現在の日本では効力のない)アメリカであっても、パートナーに何か残せるものがあるといいですよね。

デ)18年付き合ってきたけれど、「浩二さんはあなたのボーイフレンド?パートナー?ルームメイト?」そう聞かれたときに「夫です」と答えたい。そのシンプルな理由です。

―お住まいの区に、パートナーシップ条例が制定されたら使いますか?
浩)もちろん使います。元々オープンリーだから、カミングアウトの問題もありませんし。

―子育てはしたいと思いますか?
浩)僕はしたい。でも、彼はそうじゃない。

デ)うん。ゲイカップルも、ストレートのカップルのように、子供を持ちたいか持ちたくないかを選べる。ケースバイケースですよ。

www.huffingtonpost.jp

 

こちらも、実利的な側面について議論に及ぶ必要はないだろう。「自分が突然亡くなったら、不動産を合法的に彼のものにできる」ことは、なるほど婚姻関係の果たしている大きな役割のひとつである。むしろ、注目すべきは、『「浩二さんはあなたのボーイフレンド?パートナー?ルームメイト?」そう聞かれたときに「夫です」と答えたい』という情緒的な理由である。この必要は、仮に同姓パートナーシップ制度が国法に取り入れられ、妻でも夫でもない「パートナー」なる*1立場が新しく創設され、名称以外の全ての側面において婚姻関係と同様の権利および義務が認められたとしても、なお満たされたことにはならないだろう。
こうした動機は、EMAによる説明にも見ることができる。彼らはそれを、『「結婚」という特別の響きを持つ関係性』という言葉で表現している。本稿では、これを婚姻の道徳的価値と呼ぶことにしよう。

同性婚と養子縁組制度

既に述べたように、我が国において同性婚は認められていないが、同性カップルの一部はすでに民法上の「養子縁組制度」を活用して、擬似的に同性婚と同様の法的関係を成立させている。同性カップルが養子縁組制度を活用した場合の影響について、セクシュアル・マイノリティ法務支援を担うゲイリブ団体であるレインボーサポートネット(RSN)は次のように解説している。

養子縁組のメリット
  • 法律上の家族になることができる
  • 養子は養親の財産を相続する権利を有する(その際、遺言は不要)
  • 養親は養子の財産を相続する権利を有する(その際、遺言は不要)
  • 共同の財産を作ることができる(例えば、不動産の購入など)
  • 入院や手術の際に、「同意書」にサインすることができる

など

 

養子縁組のデメリット
  • 将来、パートナーと婚姻(結婚)できなくなる 注1
  • 他に家族がいる場合、その者の理解を得にくい  注2

  • 苗字が変わる 注3


注1
一度養子・養親の関係になった場合、離縁したとしても婚姻はできないため、将来、同性婚を認める法律ができた場合のデメリットとなります。ただし、特例が認められる可能性はあります。

注2
養子縁組により、相続関係に影響が出る場合も考えられます。そのため、それを納得しない人が現れる可能性もあります。

注3
養子は養親の苗字を名乗ることになるため、それに付随する作業(例えば免許証などの書き換えなど)が発生します。また、職場などでの対応(例えば、カミングアウト)についても考える必要があるかも知れません。

など

rainbow-support.net

 

養子縁組のメリットを参照すると、これらが現行の婚姻制度によって男女に認められている法的な権利とほぼ軌を一にしていることに驚きを禁じ得ない。当然、扶養控除も(配偶者特別控除を除いては)利用することが許される。医療現場における「家族の壁」はしばしば同性婚賛成派の論者によって主張される論点であるが、養子縁組は「家族」形成するため、容易にこれを解決することができる。
一方で、デメリットとしては三点が(”など"を伴わない形で)挙げられているが、一点目については、同性婚が認められるような世論が形成された際に既に養子縁組を選択したカップルへの特例は認められないような状況は現実的に想定しづらいため、検討する必要性は高くないだろう。二点目については、現行の男女の婚姻にも同様のトラブルはつきものであるため、養子縁組に特有のデメリットであるとは考えにくい。遺留分を除けば遺言によって遺産の処分方法は裁量的に指定できるため、決定的な論点とはなりづらいだろう。三点目は、現行の婚姻制度も片方が氏を変更することを要求しているため、養子縁組に特有のデメリットとはいえない。同性婚の問題ではなく、夫婦別姓問題の問題として扱われるべき事柄である。

先述のゲイリブ団体EMAは、婚姻に伴う法的な権利義務関係として「同居・協力・扶助義務、守操の義務が発生すると同時に、遺産の相続権、被扶養配偶者として年金、医療、税の控除、労災補償の遺族給付」を挙げていた。権利の側面に関しては、養子縁組によって配偶者特別控除を除けば、ちょうど両親に扶養される成人した学生と同じように受けることができることがわかる。社会保険にも被扶養者として加入可能であるし、遺族厚生年金も失効しない。義務関係についても、刑法は近親相姦罪を既に廃止しているため、貞操の義務が発生しない以外はほぼ同様である。同居の義務は民法上では発生しないが、社会保険や年金、税金の被扶養者控除の条件として要求されている場合がほとんどであるから、実際的には発生するものと考えるべきだろう。義務というものは個人の自由権を制約するものであるから、貞操の義務が要求されないことは、フランスの民事連帯契約のあり方に近く、むしろ同性婚よりも養子縁組が優れている点として肯定的に評価されるべきだ。なお、どうしても貞操の義務に束縛されたい場合は、親子間で同様の民事的な契約を交わせば口頭であっても民法上の義務が発生するため、希望するカップルは任意にこれを契約することができる。

婚姻の道徳的価値

以上の議論を総合すると、我が国の同性婚状況は世界的にも奇異な状況に置かれていることがわかる。同性による婚姻が認められていないにもかかわらず、養子縁組によって通常の結婚を部分的に上回る法的な権利義務関係が手に入る。婚姻制度に劣る唯一の点は配偶者特別控除であるが、これは妻の年収が76万円以下であり、かつ夫婦の合計した所得が1千万円を下回る場合に3~38万円の所得控除を受けることができる制度であり、一国の婚姻制度を左右する論拠としてはあまりにも貧弱である。しかも、現在の与党はこの制度が女性の就労促進を妨げているとして、これを廃止する議論を進めている。
すなわち、驚くべきことに、我が国は「婚姻の道徳的価値」を除けば、同性パートナーに結婚とほぼ同様の権利義務関係の享受を既に認めているのだ。それでもなお我が国において同性婚を要求する言説があり得るとすれば、それは「婚姻の道徳的価値」の獲得を目指すもの以外にあり得ないだろう。

それでは、婚姻の道徳的価値の内容とは何であろうか。
これについても、EMA日本が先に引用した『「結婚」という特別の響き』について部分的な説明を加えている。

Q.
そもそも、「結婚制度」自体が時代遅れではないですか?

A.
夫と妻の性固定的な役割がなくなりつつあり、結婚=妻が夫の家庭に入って経済的に夫に女性が依存するという社会でもなくなってきました。また、社会や文化が結婚を当然視するとかいうこともなくなってきました。つまり、結婚制度は、古い社会の性固定的な役割意識や男性による女性支配を必ずしも意味しなくなっています。したがって「結婚制度」自体を否定する必要性は小さくなったのではないでしょうか。

今日においても、人々は「結婚」に感情的な意味や価値を見い出し、それにより社会的な認知を得て、文化的な関係を築くという意味は減じていません。つまり結婚制度は現代でも意味を有すると考えられます。

「結婚制度」は、世俗化や市場化の流れの中で、その性格を柔軟に変化させ続けることで持続してきました。同性婚を認めることは、時代に相応しい結婚制度の発展であると言えます。

emajapan.org

 

本稿においては「感情的な意味や価値」や「社会的な認知」、そして「文化的な関係」の内実に立ち入る必要があるのだが、どうも容易に説明しうる概念ではないようだ。欧州連合などが標榜する「共通の価値」の内実が自由主義だけでは説明できないことと同様の歯がゆさを禁じ得ない。また、その内実は少なくとも経済的、即物的なものではあり得ないから、それを享受している、あるいは誰かが享受しているのを目の当たりにしてそれを羨んでいる誰かにしか説明できないものかもしれない。
単に「結婚すれば周囲が祝ってくれる」ということが婚姻の道徳的価値の内実であるならば、以前報道されたようにディズニーリゾートのような同性婚に親和的な施設で挙式し、渋谷区に届け出を提出すれば事足りる。また、同性婚が許容されたからといって、同姓パートナーシップの成立や養子縁組の成立を祝福しない人が突然同性婚を祝福するようになるわけではない。つまり、社会的な是認や祝福はあくまで社会の同性婚に対する態度に依存しており、名前をパートナーシップ、養子縁組、そして結婚と変更したところで特定の同性カップルを祝福する人々の数が増えるわけではない。むしろ、アメリカでキリスト教保守派がそうし、イスラム過激派もそうしたように、敵意を露わにする人々が出現することも考慮して評価せねばならないだろう。

しかし、婚姻の道徳的価値について唯一確実に言明できることは、その価値が同性カップル本人らの主観的満足のためのものであり、公共の利益を増進する目的を持っているわけではないということだ。「パートナー」や「養子」から「夫婦」へと名前を変更することで満足感を得るのは、何らの齟齬なく「結婚」、ないしは「夫婦」という言葉が持つ「特別の響き」を消費することができるパートナーら当事者に他ならない。

婚姻の公共的性質

さて、EMAの議論によれば「これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません」としているが、この命題ははたして真であろうか。
たとえば貞操の義務は、子の養育はその子を出産した女性が単独で負担するものではなく、通常は夫婦で負担されることが想定されることから要請されているものと考えることができる。いわゆる「托卵」のような行為が横行すれば、実際に性行為に及んだ男女が生み出した負担のうち大部分を別の男性が負担することになる。一方、男性が既婚の女性といわゆる不倫に及んだ場合も他の家庭において同様の状況を生起させることになるから、男女双方に貞操の義務を課すことは合理的であると考えられる。同様の理由から、女性について離婚後一定期間の再婚禁止規定がある。

ただ、ゲイリブ運動は義務を増やすことではなく権利を増やすための運動であるから、まずは婚姻に付与される権利関係が「配偶者が異性である場合」に限定される合理的理由を探すことにしよう。
同性婚と婚姻の決定的な差異として、出産の有無が挙げられる。婚姻はその義務によってある男女に持続的な共同生活を要請するから、長い養育期間によって女性が稼得能力を失い、あるいは保育所などの費用のために稼得の一部を手放す必要に迫られるにもかかわらず、夫婦の相互扶助義務によって養育の完遂をかなりの程度現実的にする。仮に離婚があった場合でも、裁判所は子を手放す側の稼得の一部を、公平で予測可能な基準によって引き続いて養育する側に移転する。他方で、同性婚は生物的な制約から、子を出産し社会に新たな人口を供給する機能を持たない。他の夫婦が出産した子が同性婚の夫婦に譲渡される場合があるが、この機能は孤児院や既に子育てを終えた夫婦、あるいは既に実子を持っている夫婦など、子の養育を移転元の夫婦と政府に対して誓約することができる者であれば、誰であっても、いかなる人数によって構成される団体や企業であっても果たすことができる。
しかし、人口を再生産するという機能は男女による婚姻がなくては果たし得ない。卵子は特定の精子から受精する必要があるから、孤児院や保育所が無償かつ無制限に供給されたとしても、誰かしら出産させる意思がある男性が必要になる。科学的には、一部の男性の精子を保管した後に多くの女性に投与し、子は必ず政府に譲渡するといった方法によって婚姻によらない人口の再生産は可能であるが、それに男女が同意する見込みがないから現実的ではない。少なくとも「男女による婚姻なくして人口を再生産することは、現在までの人類史において可能であったことがない」という命題は真といえるだろう。

いうまでもなく、同性婚に関する議論においては、人口の再生産は社会にとって善である。少なくとも、EMAを筆頭とする同性婚賛成派の論者は組織は、同性婚に肯定的な北欧圏との出生率の差を根拠に「同性婚少子化を解決する」と主張することがある。EMAも我が国の少子化や労働力の不足を問題にしており、「高度人材の受入促進」が同性婚の効用として挙げられるのもそのためである。

同性婚賛成派によるかかる議論を前提にするなら、現在に至るまで社会に人口を供給してきた男女による婚姻に対して、ある種の肯定的な価値を認めないわけにはいかない。ところで、現行法において婚姻には様々な権利・特典が付与されており、社会的な祝福や「特別な響き」に代表される「婚姻の道徳的価値」も与えられているわけであるが、これは「不合理な差別」ではなく、人口の再生産という社会全体に対する貢献に対する恩典として説明することができるのではないだろうか。

事実として、男女による婚姻は現代の我が国においてもその貢献を続けている。合計特殊出生率の低下が叫ばれているが、これは未婚者の増加が主な原因であり、実際に結婚した男女が生む子の数量を平均した完結出生児数は70年代以来、ほぼ横ばいである。

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同性婚によって転倒する価値

既に説明したように、男女による婚姻は人口を再生産するという一点において、代替不可能な共同体的価値を有している。いっぽうで、同性婚によって同性カップルが「結婚の道徳的価値」を消費することは個人的な動機による個人的な価値である。
既に婚姻と同様の実利的価値を養子縁組によって享受することができる以上、我が国が同性婚を認めることは男女による婚姻に固有の恩典として唯一遺されていた「婚姻の道徳的価値」を、人口の再生産を担わないカップルに認めることにほかならない。その場合、当然ながら婚姻の道徳的価値は恩典としての機能を果たさなくなる。子供を有さない場合でも、婚姻によって道徳的価値を消費することが可能となってしまう。

婚姻の道徳的価値が、ゲイリブ当事者らの様々な努力―同姓パートナーシップ条例、ディズニーリゾート挙式、協力者らよる「夫婦」としての承認、当事者間による夫婦を模した振る舞い―によっても複製することができず、あくまで男女と同様の婚姻の枠組みに内包されることを運動の目的とするのはなぜだろうか。それは、婚姻の道徳的価値が当事者の内心や、アライと呼ばれる協力者らのような小集団によって生成しうるものではなく、あくまでも遍く共同体全体から与えられる徽章でなくてはならいからだ。民主的な国民国家の法制によって認められることは、なるほど記号的に「共同体全体からの承認」を表象している。
しかし、共同体に対して排他的な方法で利益を与える手段を持たない同性婚に男女による婚姻と同様の恩典を与えてしまえば、共同体への貢献を共同体が称讃し、個人への貢献を個人が称讃するという原則が崩されてしまう。

憲法によってあらゆる恩典や貴族を廃止した我が国において、制度が個人に対して道徳的な是認を与えることは非常に稀である。同性婚賛成派が主張するように、制度における婚姻が夫婦に実際的な便宜に留まらず特別な形而上的恩典を与えているのであれば、それは夫婦にしか果たすことができない共同体への貢献、すなわち人口の再生産に対して捧げられたものと考えるべきだろう。実際、この恩典は「花嫁」という言葉と結びつき、それに付随する想像とともに若い女性が結婚を志向する大きな文化的要因であり続けてきた。
同様の恩典を同性婚に対して与えてしまった場合、同性カップルの個人的な利益、あるいは同性カップルによる養育という他の様々な個人や団体によって代替可能な共同体への貢献に対して、再生産というかけがえのない貢献と同様の恩典を共同体が与えることになってしまう。
ゲイリブ運動は、我が国において同性婚を勝ち取るとほぼ同時に、そのことを祝し宣伝するための大規模な活動を行うだろう。それはおそらく、現在各地で行っている同性婚を要求するための運動やパレードと同様かそれ以上に大規模なものになるに違いない。同性婚が法制化されたとき、当然ながらゲイリブ勢力はかなりの政治力を持っていることが想定されるから、マスメディアも忌憚なくこれに協力するだろう。
そうすると、今まで子を再生産し、責任を持って育て上げてきた夫婦にとって、彼らに与えられていた名誉や恩典が陳腐化し、責任ある再生産という義務をもはや条件としなくなったことは火を見るよりも明らかになる。現在でも中年以上の夫婦が、「私は3人の子を責任を持って育て、社会に貢献した」という意味のことを誇らしく口にすることがある。同性婚によって失われるものは、こうした名誉感情なのだ。

かかる恩典が陳腐化し、様々な責任感や名誉の感情が失われることによって、男女による夫婦が実際どういう行動に出るかということを筆者は予測することができない。しかし、ひとつ指摘できるのは、欧米諸国でそうであるように、同性愛者が様々な異性愛者の権利を複製し、パレードなどを開催して自らの存在をアピールするようになるにつれて、それに反対する勢力との軋轢が増していくという事実である。6月12日に発生した米国オーランド市の銃乱射事件においては50人が死亡したが、容疑者の動機はイスラム過激主義というよりも、同性愛者への強い憎悪であったことがわかっている。いわゆるヘイトクライムは、アイデンティティ・ポリティクスの発展とともに成長してきたことを見逃すことはできない。
ゲイリブ運動に批判的な勢力の思想は、多くの場合単に宗教的な迷妄であるとか、共通の敵を作るためのプロパガンダであるとしてあまり検討されない。しかし、今までの議論を踏まえれば、本来であれば保育所や孤児院、その他小児の養育を行うあらゆる夫婦以外の個人・団体と同様の名誉・感謝にしか値し得ない同性愛者が、僭越的に夫婦と同様の恩典を要求することへの反感・不公平感という観点から説明できるのではないだろうか。

結論および「子無し夫婦」に関する附論

ゲイリブ運動が求めている「同性婚」の精神的中核を成す「婚姻の道徳的価値」は、いうまでもなく記号としての法制度の背後に事実としての社会全体による称讃、感謝の念が込められている。仮に政治力によって同性婚を勝ち取ることが可能になったとしても、同性婚が婚姻と同様の恩典を受け取り、貢献を僭称することに対して反感をもつ人々が消滅するわけではない。政治力の勾配によって不可視化されるだけである。そして、不可視化された不満は、時に暴力的な形で暴発する。これは在特会の起源や主張にも見られる一般的な現象である。
「婚姻の道徳的価値」は、それに対応する貢献をすることによってしか、事実としての承認を伴った形で得ることは出来ないだろう。だから、それを欲するのであれば、昭和時代の同性愛者と同じように異性と結婚し、子を設ける以外に方法がない。同性愛者が果たしうる公共的な貢献が別の夫婦あるいは異性愛者が生んだ子を譲渡され、責任を持って養育するということに留まるのであれば、社会から受け取るべき恩典は保育士や孤児院、あるいは現に養子を引き受けている夫婦の恩典から、夫婦であることによる恩典を差し引いたものと等価であるべきだし、実際のところ、同性婚を法制化したとしてもそれに対応する反対派の攻撃によって、自動的にこの水準まで押し下げられるだろう。それゆえ、筆者は同性カップルに対して、婚姻という既存の規範に無理矢理自らを挿入するのではなく、養子縁組制度や婚姻制度に類似する新たな民法上の関係を創設し、多くの同性カップルがその立場から養子を養育し、社会全体に貢献することによって、新たな恩典を長い時間をかけて形成していくことを勧めたい。

また、以上の議論について、子を持つことが確実に不可能な夫婦であっても、男女でありさえすれば婚姻が可能であるため、婚姻の道徳的価値と人口の再生産の対応性は既に崩されているという指摘があるにちがない。この指摘は、二つの点において誤っている。第一には、子を持つことが確実に不可能な夫婦が婚姻し、それを終生維持できるようになったのはごく最近のことであるということだ。現行の民法典が制定されてからも長い間、家系の維持を求める親族の圧力によって子を持たない、あるいは数年を経て持つことができなかった夫婦は解体させられ、別の異性との組み合わせで再度出産を試みることを要請されてきた。第二に、子無しの夫婦はゲイリブ勢力のように、自らの存在や特性をアピールし、宣伝することは絶対にしない。むしろ彼らは子を持てないことをスティグマとして認識しており、婚姻の交渉の際にも劣った身体的特徴のひとつとして扱われる。それゆえ、子無しの夫婦はちょうど同性婚に対する恩典が反対勢力の攻撃によって差し引かれるのと同様に、これらのスティグマによって差し引かれた形でしか婚姻の道徳的価値を享受していない。それゆえ、子無しの夫婦による婚姻は、婚姻の道徳的価値と人口の再生産の対応性を揺るがしてはいないのである。

本稿において、筆者は同性婚賛成派の議論を整理したうえで我が国における婚姻制度と養子縁組制度の関係を仔細にわたって検討し、同性婚賛成派の要求が「婚姻の道徳的価値」の一点にあることをあきらかにした。その上で、人口増が善であるという同性婚賛成派・反対派の間で意見の相違がない前提から出発して、「合理的な根拠のない差別」であると考えられがちな男 女による婚姻に対する形而上的な恩典について、人口の再生産という代替不可能な貢献に対する報酬であるという説明を提供した。かかる観点から同性婚に反対する勢力の動機や子無し夫婦の情緒についても一定の説明を与え、同性婚賛成派が求めるべき適切な運動目標を提案した。また、非常によく混同される同性カップルの「他者の子を譲渡されて養育する機能」と「最終的に人口を再生産する機能」を明確に区別して論じた。
ただし、本稿はフェミニズムやクイア研究と称する分野の先行研究や、婚姻の意義を追求した人類学の先行研究を参照し、あるいは前提としたものではない。あくまでも我が国の現代における婚姻と同性婚に注目し、短時間で入手できる資料を基に考察を進めている。また、中途で同性婚の経済的・実利的な価値についての議論に触れることがあるが、この点についてはくわしく検討していない。
道徳的な価値を毀損するとしても、その代償に大きな経済的繁栄が手に入るならそれを受容すべきとする議論も考えられ、また、大きな支持を受ける可能性がある。それゆえ、北欧諸国の出生率や経済成長と同性婚の関係については、同時に進行している移民の流入といったファクターの影響も踏まえたうえで厳密な因果関係を析出する作業が求められるだろう。また、近代以前において同性愛を許容する価値観や法制度が存在したことはしばしば指摘されることであるが、現代まで残り、反映している文明や宗教は、みな同性愛・同性婚を禁止するか、少なくとも好意的な立場はとらないものであった。同様の傾向は男系主義と女系主義においても観測できるが、これを人類学の立場から社会ダーウィニズムや自生的秩序の議論を前提に考察することも、実りある今後の研究課題となり得るだろう。

*1:名前は何でもよい

クリティカル・シンキングってなんだ?―ICUに潜む"ignorance"を検証する

Education Politics

話題を呼んでいるフロリダの銃乱射事件について、国際基督教大学の、とある卒業生がこんな投稿をした。

6月13日(月)15時07分

あまりこんなことを投稿したい訳では無いけど、さすがに日本のメディアのignoranceに我慢できなくなって、、、

Firstly, rest in peace and power to the innocent victims who lost their lives. I pray for strength to those who have been injured and to all who have been affected.

この銃撃事件について日本のメディアも取り上げているけれど、ISISが関わっていたテロだということだけを重点的に言って、事件現場がLGBTのバーだったということを一切言わないのはなぜ?

どの記事を読んでも、ニュースを見ても、ただ「ナイトクラブ」としか記載されてない・言ってなくて、例え同性愛者が集まる場所ということに関して触れていても、最後におまけレベルでしか取り上げていない。(これは5/13の午前中の時点で。時間が経つにつれて増えてきている。なので時間の問題かもしれない。)

でもアメリカのニュースや海外の友達の投稿を見ていると、今回の件においてはLGBTQのマイノリティーがターゲットであったことにとてもsignificanceがあることが感じられる。ただのナイトクラブで起きるのとはまた全然違ったメッセージ性と意味合いがある。

なのに、その点について深掘りしようとしない日本のメディア。改めてこの国の保守的さを感じた。そこまで事実について触れるのが怖いの?なぜ情報をそこまで濁すの?

私には理解ができない。もっと誠実に現実・事実と向き合いジャーナリズムに取り組んで欲しい。でないと本来のジャーナリズムの役割を果たしていない。最近なんて芸能人の不倫報道ばかりで、このままでは日本は無知の人々の集まりになってしまう。

私はそんな社会が嫌だ。よりリベラルでオープンな心で全ての人々を受け入れられ、違いを価値として分かち合える、誰もが活躍できる社会になって欲しい。今回の事件の報道のされ方を踏まえて改めて、日本という国のマイノリティーがどれだけ苦しんでいるか考えさせられた。

日本は単一民族として知られていて、非常に平等で格差が比較的少ない社会として認識されているが、実はこれはとてつもない嘘で現実はそんな社会とは程遠い。

どれだけ部落の人々が福島原発後に苦しんだか、移民の人たちが働く権利を得られないか、LGBTQの人々に対する理解がないか。先日はご縁がありディスレクシアのシンポジウムに参加したが、如何にその病気自体が認識されてなくて (ディスレクシアという単語が変換機能で出てこないくらい)、彼らへの支援が日本では整っていないかを学んだ。私自身も帰国子女として、全てがルール化されている社会で苦しんだ経験もある。この社会はどれだけマイノリティーにとって生き辛いものか。

なぜ日本は平和な国として認識されているのか。それはあまりにも型のはまった社会で、保守的で、マイノリティーの人たちがとてもでもないけど声を上げられない、もしくは声を聞いてもらえないから。そんな人達が永遠とサイレントにいるくらいだったら一見荒れているように見えるけれどもアメリカのようにオープンに人種差別、宗教、政党について目に見える形で議論し、戦い、運動がある方がよっぽど健康的な社会だと思う。

なぜかすごく今回の事件の報道のあり方にとても不満を感じ、熱くなってしまった。でもメディアは当然ながら国民の情報の源であり、それに基づいて人々は考えを構築し、行動を起こすわけだから、彼らには本当に肝心な事実をありのままに提供して欲しい。そして、改めて自分も無責任な言動や行動に気を付けなくてはいけないと思った。

そして、この事件の報道のあり方から感じられた日本の保守的社会と文化。これをどうにかしたい。平等で平和と思われがちな日本社会だけど、気付かれていないだけで、蓋を開けてみるとそうでもない気がする。恐らくこれで苦しんでいるのはマイノリティーだけではない。誰にだって色々な事情があるから、お互いを理解し合い、受け入れる心が大切だ。きっとこれを思っているのは私一人ではない。一緒に日本社会を全ての人のために良くしませんか?誰もがありのままで受けいられ、活躍できる機会を得られる社会に。

今回この報道のされ方の違いに気付いたのは世界中の友達との繋がりのおかげ。こんなにも同じ事件について違う捉え方がされるなんてびっくりしちゃいました。改めて、リベラルアーツの考え方で、クリティカルシンキング、全ての情報を疑い、色々な視点から物事を見ることの大切さを感じました。自然とそんな風に考えるように育ててくれた自分の育った環境や共に過ごした人々に感謝です。

 (1966文字)

公開設定で投稿されていたから、そのまま引用した。

本稿ではこの投稿を批判的に検証しつつ、この投稿に対する在学生はじめ関係者の反応も紹介し、ICUにおける"ignorance"の所在について考察を加えたい。

投稿の要約

問題の投稿は感情的な表現を多く含んでいるが、要旨は以下の通りである。

  1. 日本のメディアはignorant(無知)である
  2. なぜなら、イスラム国関連のテロであることは報じているのに、事件現場がLGBTのバーだったことを一切言わないからだ
  3. 私は複数の報道を参照したが、現場について「ナイトクラブ」以外の言及がなかった
  4. 例外的には同性愛者が集まる場所であるということに触れている報道もあったが、それらは「おまけレベル」でしかなかかった
  5. 一方、アメリカのメディアは同時点で「LGBTQ*1」が標的であったことをsignificance(重要性)をもって取り上げている
  6. したがって、日本のジャーナリズムは現実・事実と誠実に向き合っておらず、ジャーナリズム本来の機能を果たしていない
  7. 今回の報道を通して、日本におけるマイノリティーの苦しみについて考えさせられた
  8. メディアは国民の思考の源泉であるから、肝心な事実をありのままに提供して欲しい

その後、合計2000字に至るまで、目を覆うばかりの日本批判が列挙される。リベラルでない、オープンでない、芸能人の不倫報道ばかりだ、格差社会だ、福島原発、移民拒否……等々まくし立てられている。
個別の論点についての検討は控えるが、特段の根拠が示されているわけではない。

そして、投稿は次のように結ばれている。

今回この報道のされ方の違いに気付いたのは世界中の友達との繋がりのおかげ。

こんなにも同じ事件について違う捉え方がされるなんてびっくりしちゃいました。改めて、リベラルアーツの考え方で、クリティカルシンキング、全ての情報を疑い、色々な視点から物事を見ることの大切さを感じました。自然とそんな風に考えるように育ててくれた自分の育った環境や共に過ごした人々に感謝です。 

 投稿者が上記のような認識に至ったのは、リベラルアーツの考え方(=色々な視点から物事を見ること)」クリティカルシンキング(=全ての情報を疑うこと)」のおかげだと考えているようだ。

日本のメディアは"ignorant"だったのか?

リベラルアーツクリティカルシンキング

これらはICUの初年度過程で強制的に履修する"ELA"という講義で一年を費やして学ぶ(とされている)ものであり、ICUが「スーパーグローバル大学」に認定された理由のひとつでもある。

しかし、投稿者が批判する日本のメディアは、本当に"ignorant"だったといえるだろうか?

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上の表をご覧頂きたい。

これは、筆者が独自に6月12日から13日深夜にかけての日本メディアの、本事件に関する、さかのぼれる限りで初動に近い報道を調査したものである。

テレビ局系を中心に既にページが削除されているものも散見されたが、この場合は他サイトのキャッシュを参照した。順序は概ね報道のなされた順になっている。

じつに13件のうち、「同性愛者のクラブであることについて言及していない」のはたったの2件である。百分率にすれば11%だが、なぜ、投稿者は事件現場がLGBTのバーだったということを一切言わないのはなぜ?」という疑問を持つに至ったのだろうか。

もちろん、投稿者は同性愛者についての言及が為されている記事があることも認識しているようだが、あくまで例外的に過ぎないとの認識のようだ。だが、実際には同性愛者のクラブであることを述べていない記事がむしろ例外的であるし、保守的な論調で産経新聞社は「同性愛者」をタイトルの先頭に掲げた記事を、12日21時の時点で掲載している。

理性的な人物であれば、この状況をもって、日本のメディアが同性愛者のバーであることを報じないから"ignorant"であるとか、ジャーナリズム本来の機能を果たしていないとか、誠実でないとかの批判を加えることは為しえないだろう。

海外メディアはリベラルで寛容なのか?

また筆者は、日本のメディアと対比する形でアメリカのメディアを称揚している。アメリカのメディアは、日本時間6月12日前後の時点では何を報道していたのだろう。

ロイターはイギリスのメディアだが、この事件を頻繁に扱っている。この記事は、もちろん、アメリカに駐在する記者が書いたものだ。

日本の時事通信における「ゲイバーで」と類似する形で、ゲイのクラブであることはタイトル中で言及されている。ただし、ゲイという言葉はこのタイトルの(上のサムネイルに入っている)箇所が最後だ。

それ以降は、現地の警察へのインタビューや、当局者がテロかどうかを見極めようとしているといった保安的な観点の内容が続く。もちろん、ヘイトクライムであるという指摘もなければ、"LGBT"という言葉も登場しない。インド標準時で12日午後8時過ぎだから、その頃日本は13日午前0時前後である。時系列としても、むしろ遅いほうに属するだろう。

アメリカの代表的なメディアであり、リベラル・民主党派として知られているワシントン・ポストも、12日の事件直後の段階では通信社の情報をそのまま引用し、事件についての事実関係を報道するに留めている。

アメリカのメディアはウェブ上の記事を"Live Update"と称して逐次更新していく習慣があるため、過去のある時点における報道を正確に把握することは困難だ。オバマ大統領が事件を明確にLGBTの結びつけたコメントを発表して以降は、どの記事もLGBTについて"significance"をもって言及している。

ただし、ワシントン・ポストのメイン記事のタイトルは、それでも"Gunman who killed 49 in Orlando nightclub had pledged allegiance to ISIS"(オランドのナイトクラブで49人を殺した銃乱射犯はISISに忠誠か)である。LGBTよりテロを重視する比重は変わっていないし、同じ12日に事件の直接報道以外で最初にこの事件と関連づけて書かれた記事は"Orlando shooting: The key things to know about about guns and mass shootings in America"(オランド乱射事件:アメリカにおける銃器と乱射事件について知らねばならないこと)である。

アメリカでは、今回の事件は銃規制の強化という新しい論点を大統領選挙に加えたものと考えられているようだ。

筆者の英語力の限界から、あらゆる英語圏のメディアを子細に検討するわけにはいかないが、主要なものに注目する限りでは、アメリカのメディアも、"LGBT"関連の事件であることを日本のメディアと比較して特に強調していた様子は見られなかった。

むしろ、事件の当事国であることからか、安全に配慮する観点や、大統領選への影響という観点からの分析が目立つ結果になった。"LGBT"に関する視点の比重という意味では、日本のメディアにおけるそれと大差はなかったように見受けられる。

もちろん、13日以降はオバマ大統領の「ヘイト」発言もあり、LGBT問題を取り上げるメディアが大幅に増えている。日本でも、13日正午の時点で複数のメディアがこれを取り上げている。

www.asahi.com

*2

ICUクラスタの反応

このように、投稿者は非常に強い調子で、感情的に日本のメディアや日本を非難していたが、実際に日米の報道を検証してみると、投稿者の意見には根拠がなかったことがわかった。

ここで、ICUの学生・卒業生らの間における、この投稿への評価を紹介しよう。これらも、公開設定で投稿されていたものに限って、匿名で引用した。

 ホントだね。かなりの違和感を感じてた

色々な状況に立たされている人々に心を傾けられて、かつ義憤まで感じられる投稿者のハートを尊敬するよ

同意すぎてシェアさせてもらったよ‼︎‼︎どうにかしてこの体制がかわって欲しい

投稿は166件の「イイネ!」と12件の「シェア」を獲得しており、一般人による政治的な投稿であることを踏まえればかなり高い水準の支持を獲得している。

一方で、メディア業界で働くと称する卒業生からは、批判的なコメントが寄せられることも散見された。

水を差すようで悪いけれど、日本のメディアでも「同性愛者の集うバー」ということに触れているものはないわけではないよ。TBSに産経、朝日にNHKのニュースでもそう取り上げられていた

この記事で検証したような事実を、冷静に認識している卒業生も存在した。ただし、大変残念なことに、それは少数派に留まっている。

 総括

投稿者に「色々な視点から物事を見ること」と「全ての情報を疑うこと」を教えたELAの講義は、当然ながら筆者も履修している。1年次はほぼ全ての時間がELAに割かれていた。

人々の感情に訴えかけ、事実に基づかない煽動によって特定の政治的立場の支持を広げようとすることを「プロパガンダ」と呼ぶ。

ELAがクリティカルシンキングを強調した最大の理由は、学生一人ひとりがプロパガンダに影響されず、独立した思考者として社会に対峙するためであった。ところが、この投稿の出現とその拡散は、図らずもリベラルアーツ教育とクリティカル・シンキングの限界を露呈したというべきだろう。

ICUの学生と卒業生は「福島原発」「移民」「マイノリティ」といった論点については、ELAで得た武器を全面的に活用して奥の深い思考ができるに違いない。しかし、その武器は自らが好意を持っている対象に向けると、たちまちガリガリ君の棒のような無力な何かに変わり果て、どんなプロパガンダでも諸手を挙げて賛同してしまうようになる。

今回、筆者のような観点からこの投稿を批判的に検討することは、フェミニズムLGBTライツというイデオロギーの運動にとって、少なくとも利益にはならない。

そのため、他の問題に関しては誰よりも批判的であった学生であっても、30分もかからずに調べることができる事実を検証することができず、「イイネ!」を通じてデマゴーグを祭り上げ、シェアを通じてプロパガンダの拡散に協力する醜態を演じてしまうのだろう。

どんな能力も意思なくしてはその機能を果たさないのと同じように、クリティカル・シンキングも中立的な観点や知的誠実さと呼ばれる概念を有していなければ、自らの好意的なイデオロギーのプロパガンダに荷担する結果を招き、ignorantゆえにどんな知的営為も為し得ない場合よりも悪い結果を招くことがある。

ELAの教室で実際に教わり、今も記憶に残っているJennifer先生のシンプルな教訓を引用して今回の結びとしよう。

Your argument needs to be based on good eveidences. (Jennifer, Y)

 

※2017年3月20日 文体を修正

*1:同性愛者の一種。ここでは細かい用語については扱わない

*2:時事通信提供の記事